4 青蛙のいざないⅡ⑥
ちょっと待っててくれ、と、親父さんは碧生へ言うと、不意に居間から出て行った。
碧生はソファにぼんやり座ったまま、ミルクコーヒーが入っていた三つのマグカップを見るともなく見る。
ナンフウの分のマグカップに、底に少しミルクコーヒーが残っているのに気付く。
完全に冷め切ってしまった、少し白みがかった茶色い液体は、汚らしいようにも物悲しいようにも見えた。
「お待たせ」
そう言いながら彼は、さっきミルクコーヒーを運んできた時にも使っていた小さな盆の上からグラスを取り上げ、碧生の前に置いた。
「なんか飲み物をと思うたんやけど、ウチには今、冷やした麦茶か牛乳くらいしかないんや。悪いけど、これで勘弁な」
「ああ、いえ。ありがとうございます」
礼を言い、碧生はグラスを取り上げる。麦茶だ。
思っていた以上にのどが渇いていたので、一気に半分くらい、飲んでしまった。
「結木くん。このことは他の誰かに、まだ言うてないのんかな?」
飄々とした口調ではあったが、どこか探るような気配で親父さんは訊いてきた。正直、軽くイラッとしたが、
「言うてません。っていうかボク自身、信じられんかったってのか。カエルやらスズメやらに話しかけられた、ような気がしてるだけって思ってたってのか、思い込もうとしてましたし。仮に、こんなこと他人に言うたところで、アホなこと言うなって笑われるんがオチやと思ってましたし」
と、静かに答えた。
腹の底で不穏で不快なものがくぐもっているが、それをナンフウの親父さんへぶつけても仕方がないと判断する程度の理性は、かろうじて残っている。
親父さんはふと哀し気な表情を浮かべたが、すぐに真顔になった。
「……そうか。ま、そうやわな。こーゆー常識外の話、うかッともらしたらコッチの正気を疑われるからな。少なくとも、おんなじような経験してる者やないと、まともに話が通らへん」
彼は不意に姿勢を正した。
「キミにとっては理不尽以外になにものでもないやろうけど。青蛙のミコトのいざない……あ、青蛙のミコトから呼ばれることを昔からそういうんや、青蛙のミコトのいざないを受けた時点で、キミはほぼほぼ『おもとの守』の一員と目されるねん。細かく言うたら違うし、場合によったら神さんから嫌われて外される可能性もコンマ1くらいの割合で、なくもないけど。キミは、小波という名で呼ばれてるこの土地と、深い縁が出来てしもた。ある意味気の毒やけど、そこはもう……諦めておくれ」
碧生は押し黙ったまま、親父さんの顔を見た。
諦めておくれと言われ、ハイわかりましたと素直に思える訳などない。
が、若い頃に同じ経験をし、そこから逃れようと本気であがいた経験のある『先達』なのだ、彼は。
その人に、淡々と言われるこその重みが、生理的ともいえる反発や不快感に反し、碧生の言葉を奪う。
親父さんはひとつ息を吐いた後、再び居住まいを正した。
「ワシからは大雑把にしか説明できへんかったけど、キミやウチのバカ息子が経験したけったいなアレコレの説明は、バクッとさしてもらった。今後のことやらなんやらは、しかるべきお人からちゃんとしてもらうことになるやろう。ちょっと訊くけど、キミ。明日の放課後ってのか学校が終わった後、時間、とれるかな?」
「……はあ。多分。特に用はない、です」
『しかるべきお人』から話があるのだな、と、碧生は察する。
はっきり言って、こんな『ややこしい』、地域の因習(というか地域の人外)と関わりたくはない。
そもそも碧生は『地元の人』ではない、彼ら言うところの『余所者』だ。
別に碧生個人が『地元の人』たちと仲が悪い訳ではないが、向こうからは距離を取られている感触がある、昔から。
地域の行事やお祭りに参加していて、そんな疎外感をなんとなく感じていた。
一瞬、用があると嘘をついて逃げようかと思ったが、逃げて逃げ切れるものでもなさそうだと、すでに碧生は観念している。
ならば、正面から向かっていった方がマシというもの。
少なくとも、この訳のわからない状況をもっと正しくクリアに知らなくては、どうにもこうにも気分が悪い。
「ほんなら。学校が終わり次第、野崎さんのお屋敷まで来てくれへんかな。今の代の『おもとの守』が、それこそ近い身内に不幸でも起こらん限り、万難を排して集まるはずやから。そこで……キミらは正式に、モリの若葉・ツカサの若葉として我々と会うことになる。キミら以外はエエ歳した大人ばっかりやから鬱陶しいやろうけど、気ィは悪ない連中やで」
ワシを含めて、な。
親父さんはちょっとおどけたようにそう付け足し、そして何故か、あ、しまったとつぶやいた。
「よう考えたら、ワシ、結木くんにちゃんと名前、名乗ってなかったな。スマン。ワシの名前は波多野恵治。恵む、という字の『恵』に政治の『治』で恵治。書道関係では、恵むに月で『恵月』って呼ばれとる。おそらく長い付き合いになるやろう、これからよろしくお願いします」
妙に生真面目な挨拶をされ、碧生はあわててペコペコ頭を下げた。
「明日はウチのバカ息子も、首に縄つけてでも野崎さんちへ引っ張ってゆくから。また明日、お会いしましょ」
そこで碧生は波多野邸を辞した。
秋の夕刻は暮れるのが早い。
薄闇の中、碧生は自宅へ戻る。
途中、一度立ち止まって、波多野邸を振り返った。
夕焼けの名残りの中、影に沈む背の高い棕櫚の木。
風が吹いたわけでもないのに、葉がざわざわ鳴った。
なんだかひどく恐ろしくなり、碧生はがむしゃらに前を向き、早足で家路をたどった。




