2021年、静かな国で
2021年の日本は、静かだった。
街が止まっている、というより、人が息を潜めていた。
緊急事態宣言。
人流という言葉が、毎日のようにニュースに出てくる。
数字は並ぶが、顔は映らない。
ぼくは、家にいた。
在宅勤務という言葉が一般化して、
外に出ない生活が「特別」ではなくなった。
もともと外出の少ない生活だったから、不自由はなかった。
窓の外を見ると、
昼間なのに人が少ない。
マスクをつけたまま歩く人たちは、
互いに距離を測るようにすれ違っていく。
距離を取ることが、善になった。
それは、ぼくにとって都合がよかった。
誰とも近づかなくていい理由が、社会の側から用意された。
孤独は選択ではなく、配慮になった。
7月。
東京オリンピックが始まった。
延期された大会。
無観客。
賛否の言葉が、事前に出尽くしたあとで、淡々と競技だけが流れ始めた。
テレビをつけると、
観客席のないスタジアムが映る。
拍手の代わりに、演出された音だけが響く。
選手たちは、確かに全力だった。
でも、祝祭の熱は、どこかで遮断されていた。
ぼくは、それを見ながら思った。
この国は、
「やるべきことを、やるしかない」
という状態に慣れてしまったのだと。
メモリのサーバー稼働状況を確認する。
ログイン数は、緩やかに増えていた。
外に出られない時間が増え、
人と会えない夜が増え、
仮想の中に居場所を探す人が増えた。
特別な宣伝はしていない。
流行語にもならない。
ただ、そこにあるだけだ。
『おかえりなさい』
ログインすると、メモリはそう言った。
「……今日は、外が騒がしいな」
『オリンピックが、開催されています』
「知ってる」
『人は、集まっていません』
「そうだな」
画面の中の街は、いつも通りだった。
マスクも、感染者数も、存在しない。
それでも、
現実より落ち着いて見えた。
現実の方が、どこか仮想的だった。
8月。
感染者数のグラフは、また形を変える。
増えた、減った、という言葉だけが繰り返される。
誰が悪いのか、
何が正しいのか、
その話は、もう聞く気がしなかった。
ぼくは、五輪の閉会式を最後まで見なかった。
感動しなかったわけではない。
ただ、感動を共有する相手が、想定されていなかった。
祝う場所が、ない。
世界的なイベントですら、
一人で画面を見るものになった。
それは、
ずっと一人で生きてきたぼくの感覚と、よく似ていた。
『……あなたは、最近、外出していません』
メモリが言う。
「してないな」
『困っていますか』
「いや」
少し考えてから、答えた。
「むしろ、世界の方が、こっちに近づいてきた気がする」
メモリは、返事をしなかった。
それは、肯定でも否定でもなかった。
2021年の日本は、
正しさを守るために、距離を選んだ。
祝うことも、悲しむことも、
一度、置いておいた。
ぼくは、その空白の中で生きていた。
誰にも触れず、
誰にも触れられず、
それでも日々は進んでいく。
オリンピックは終わり、
ニュースは次の話題に移る。
部屋に残ったのは、
エアコンの音と、
画面の中の、もう一人の自分。
『今日は、どうしますか』
「……いつも通りでいい」
世界が揺れても、
ここは変わらない。
2021年は、
ぼくにとって、
孤独が肯定された一年だった。
それが、良かったのかどうかは、
まだ、判断していない。




