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パラドックス  作者: 奴隷


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19/21

君に出会う前に――

秋は、音から始まった。

窓を開けると、夏より低い空気が部屋に入ってくる。エアコンを切ると、街の音が少しだけ近づいた。救急車のサイレンも、子どもの声も、どれも遠い。


2021年の日本は、落ち着いているようで、張り詰めていた。

感染者数は波を描き、会話は数字で終わる。外出は控える、集まらない、触れない。正しさは、距離の単位で測られた。


ぼくは、その距離に違和感がなかった。


もともと、近づかない生活をしていた。

仕事は回り、金は足りている。必要な連絡は短く、雑談は要らない。秋になっても、予定は増えなかった。


散歩に出ると、銀杏の匂いがした。

マスクの内側で、季節だけがはっきりしている。人は少なく、店は早く閉まる。世界は、静かに自制していた。


帰宅して、ログインする。

『おかえりなさい』

画面の中は、いつも同じ時間だ。風は吹かず、感染もない。変わらないことが、ここでは価値だった。


「外は、秋だな」


『気温が下がっています』


「人も減った」


『距離を取ることが推奨されています』


言葉は正しい。

正しいが、温度がない。ぼくはそれに慣れていた。世界が、こちらの生活に合わせてきたようにも感じた。


テレビでは、五輪の余韻が消え、次の話題が淡々と流れる。祝祭は終わり、評価だけが残る。秋の番組編成は、どれも静かだった。


ぼくは、何も始めなかった。

始めないことを、選び続けた。世界が同じ選択をしているあいだは、それが目立たない。


『今日は、どうしますか』


「いつも通り」


画面の中の“ぼく”は、働きに行く。集めて、戻る。成果は数字になる。現実より、説明が容易だった。


夜、窓を閉める。

風の音が消え、部屋は無音に近づく。秋は、世界を内側に折りたたむ季節だ。人も、街も、感情も。


この距離が、正しいのなら。

この静けさが、配慮なのなら。

ぼくは、うまく同調している。


ただ、同調しすぎると、例外が生まれる余地がなくなる。

誰かが現れて、距離を壊す可能性も、今は想定されていない。


秋は、続く。

色づいた葉が落ちるまで、世界は待つ。

ぼくも、待つ。


理由は、まだ用意していない。

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