終章 最後の祭祀(3)
おもむろにその影は、祭祀場へ向き直って歩き出した。
一歩一歩確かめるように、その足はゆっくりと大地を踏みしめる。ひとつ進むごとに、その存在に触れた地が死んでいく。草が枯れ、虫は堕ち、地面は黒く朽ちていく。
その残酷な荒廃をもたらす姿は、まさに黄泉からの使者……。
――違う。
そこまで思ってから、わたしは己の間違いに気がついた。
そうだ、確かにソレが通る世界は死んでいく。……でも。
再びその足が離れた時、その死の世界は一瞬にして蘇り、生に溢れるのだ。その通り道だけ世界は死に絶え、そしてまったく新しい碧が生を誇るようにもう一度ひしめき合う。
――蛇神信仰。古い身体を脱ぎ捨て、新しい存在となる死と再生の象徴……。
ちとせから以前聞いた言葉を思い出す。
ああ、そうだ。こんな簡単な答えに、どうして今まで気がつかなかったのだろう。白神大祭の儀式は、単に白火主命に隷属するためのものではない。
そう、八つの尾を持つ蛇が八叉彦命。
であれば、白神大祭で尾を四つ失った時、八叉彦命は……。
ヤシャヒコは、シシャヒコとなる。
シシャヒコ……すなわち、死者だ。
とすると、もうひとつの疑問も自ずと氷解する。こみ上げる哀しみとは裏腹に、わたしの理性は冷静に答えを組み立てていく。
『何故、白火主命に敗れた八叉様が穢れを滅ぼすことができるのか』――これはむしろ、白火主命に殺されるからこそ八叉様は災いを滅ぼす力を手に入れられるのだ。つまり……。
思考を走らせるわたしの目の前で、状況は刻々と進んでいく。
死者となった八叉様が向かうのは、穢れの生み出される祭祀場の中心。ゆらめき形を成しつつある穢れの元へ、彼はゆっくりとした足取りながらも迷いなく近寄っていく。生と死の世界を何度も繰り返しながら。
巨大な罅から生じた黒いモヤが揺らぐ。次の瞬間、モヤは黒い矢の雨と化して、息つく間もなく八叉様の身体へと降り注いだ。
「八叉様……っ!」
矢は容赦なく彼に突き刺さり、その身を抉る。その衝撃に、八叉様の身体がぐらりと揺れる。
見るからに痛々しい姿。それでも、彼はその歩みを止めない。
「ァァアアアァッ!」
影の苛立ちを表すような咆哮が大気を震わせた。それに呼応するように矢は苛烈さを増し、次から次に降りかかっては彼の存在そのものを剝ぎ取っていく。
目を背けたくなる惨状を前に、わたしは涙をにじませながらもその姿を必死で見続ける。
もう、やめて……! いくら叫んでも、わたしの声は彼に届かない。
そんなぼろぼろの姿になってまで、身勝手な人間を救わなくて良い。自身の在り方を変えてまで、役割を果たそうとしないで……!
聞こえていないとわかっていても、わたしは縋りつくように言葉を重ねる。
――ひときわ大きな矢が、八叉様を貫いた。
しばし縫い留められたかのように、その身体が空中で静止する。
……なんとも言えない嫌な沈黙が訪れ、どさりと八叉様の身体が斃れた。
地面に斃れた八叉様。その身体が一瞬、溶けるように揺らぐ。
まるで古い身体を脱ぎ捨てるかのように、彼の傷ついた身体がずるりとその身から剝がれていく。ほどなくして新しい身体を得た彼は、何事もなかったかのように起き上がり、再び歩きはじめる。
そうだ、命の終わりすらも自らの輪廻に取り込んでしまった彼には、死はもはや何の意味ももたらさない。
やがて、ぴたりと歩みを止めた八叉様は静かに口を開く。
「――――――」
その口から流れ出したまじないの声に、大気が畏れるように震えはじめる……。
突然、八叉様の呼び声に応えたように大地から何本ものツタが芽を出した。天へ向かって勢いよく伸びはじめたツタはあっという間に見上げる程に大きくなり、蛇のように捻じれ合いながら穢れへと一直線に突き進んでいく。
「ァァアアアァ――!」
ツタに絡め捕られ、穢れは苦しそうに身をよじった。
曖昧だったその姿は、ツタの拘束により逆説的にはっきりとその形をあらわにする。囚われたソレは苦しげな悲鳴を上げ必死に逃れようと暴れるが、しなやかなツタはそれを許さない。その動きを完全に封じ込め、反対にどんどんキツくその存在を締めつけていく。
――圧倒的な、力の差。これが、白神大祭による効果なのか。
拘束が完全になされると、八叉様はすっと穢れを指さした。
ぼっ、と炎が燃え上がる。穢れを縛りつけていたツタが一瞬にして青白い炎をまとった。熱を感じさせず、ただ触れたものすべてを無に帰そうとする炎。
穢れの姿は、見る見るうちに小さくなっていく。
地面をのたうちながら、最後の抵抗とばかりに穢れは大地を揺らし、張り裂けんばかりの悲鳴を上げる。
……しかし、長くは続かなかった。
声は次第に力を失い、やがて存在を跡形も残さず焼き尽くされていく。
周囲の空気が、ふっと軽くなった。
それを見届けた八叉様の身体は、次にそれを傍観していた白火主命へと向く。
制御できない暴力性は、次の敵を見定めて白火主命へと一直線に向かおうと……。
「ダメェェエエエ!」
喉が張り裂けそうなほどの声を上げて、わたしは必死に彼を制止した。そちらへ行ってはいけない、儀式を完遂させてはならない――届くはずがないのに、わたしの呼びかけに八叉様の動きが一瞬ぴたりと止まる。
すべての力を振り絞り、彼にめがけて、わたしは握り締めたあるものを投げつける。
「貴様、それは……!」
――白火主命の驚きに満ちた声が、わたしの選択が正しかったことを予見させた。




