終章 最後の祭祀(2)
「シロ。今年は我の我が儘に付き合わせて、悪かったな」
八叉様の声が聞こえる。いつも通りの明るい声。わたしは、恐る恐る瞼を開けた。
どこか遠くに見える、祭祀場に佇む八叉様の姿。それでも目に映るその姿はあまりに鮮明で、思わず彼に向かって手を伸ばす。
「……っ!」
その手が虚しく空を掻き、わたしは小さく息を呑んだ。
――見えているのに、触れない。聞こえているのに、呼びかけられない。
近くに在りながら、その距離が決して縮まらないことを悟る。わたしと八叉様の間に存在する、確かな断裂。
「わかっているのであれば、諦めれば良いものを。貴様の所為で、余も無用な苦労を強いられたわ」
苦々しく答えながらも、白火主命の声には何処となく優しさがにじんでいた。
「まぁ良いさ。貴様が居なければ、アレが目覚めてしまう。そうなれば貴様の言う通り、余も面倒なことになるからな」
「ああ、ありがとう」
白火主命の素っ気ない返答を気にすることもなく、八叉様はうんうんと楽しそうに頷く。
「っ!」
そんな彼を見て、何故か白火主命が辛そうな顔で目を逸らした。悲痛で見ていられない、といった表情でやるせなさそうに白火主命は口を開く。
「それで、お前は……楽しかったのか」
「もちろんだ!」
白火主命の様子とは裏腹に、八叉様の声が明るく元気良く響いた。
「文化や時代が変わろうと、人というものはやはり面白い! 司紗も我と話をしてくれて、我を理解しようとしてくれて……本当に、本当に会えて良かった! 我もこの地を守ってきただけの甲斐があるというものだ!」
翳りのない、ぱぁっと咲く笑顔。
「……そうか」
ギュッと拳を握り締め、白火主命は言葉少なに頷いた。静かに八叉様に歩み寄った彼は、その肩を静かに抱く。
慰めるような優しい抱擁。八叉様に顔を寄せて、白火主命はぽつりと呟く。
「もしお互い、こんな立場でなければ……余が、貴様の理解者に、友になれたのだろうか……」
「シロ?」
大人しく抱きすくめられたまま、八叉様は不思議そうにその顔を仰ぎ見る。
「我は今だって、シロのことを友だと思っているぞ?」
「いや、余は断じて貴様の友にはなりえない」
仮面をかぶったように無表情な青白い顔で、白火主命はそんな八叉様の言葉を容赦なく切り捨てる。それは、この愛情あふれる抱擁とはあまりに矛盾した冷淡な反応。
「当然であろう、余は友を……」
片手はしっかりと八叉様を抱き締めたまま、もう片方の白火主命の細い腕はすっと伸ばされた。
全身をつららで貫かれたような錯覚すら覚える程の、凍てついた声が響く。
「友を、殺すことなどできないのだから」
水を打ったように、ぴたりと周囲が静寂に包まれた。
不吉な沈黙に満たされる中、白火主命はもう一度八叉様を強く引き寄せる。腕の中の彼を求めるように。もしくは、決して逃すまいとするように。
言葉はもう、何も口にしない。
八叉様は何の抵抗もしない。ただ一瞬だけ、何かに怯えるようにその背がびくりと大きく跳ねた。
しばらくの間じっとそうしてから、白火主命は無造作に八叉様を突き放す。ぐらり、と八叉様の身体が造作なく離れ、傾く。
わたしの目に飛び込む、八叉様の腹から突き出した尖った刃先。
あまりに衝撃的な光景に、最初は理解が追いつかなかった。
彼の身体から生える短刀を、シュールだ、とすら思う。どうして、あんなところから刃が。
――呆然と、わたしはただ見ている。
人形のように容易くバランスを崩し、地面へ落下しようとする八叉様を。
そこをさらに踏み込み、虚空から掴みだした鉄輪で袈裟懸けに斬りつける白火主命を。
軽々と八叉様の身体は吹っ飛び、地面へと叩きつけられる。無抵抗に地面を跳ね、転がるその身体。
地に伏したソレは、どんなに注意深く見てもそこから動く気配が見られない。
ごろん、と転がった頭がこちらを向いた。乱れた髪の先に覗く、ガラスのような虚ろな瞳。閉じられることのないその黒真珠に、一切の光はない。
――嘘だ。
わたしの脳内にようやく浮かんだ言葉が、それだった。
さっきまで、あんなに明るく手を振って、笑って、喋っていたのに。
早く起きてよ。どうしてそんな風に横たわっているの。どうして笑ってくれないの。どうしてどうしてどうして。八叉様、八叉様っ、どうして……!
ただその不条理に『何故』を問い続けることしかできない。たとえそれに答えが返ってこないことがわかりきっていても。
足を動かし、空を掻き、必死に彼のもとに駆け寄ろうとわたしは足掻く。しかしいくら全身を動かそうとも、目の前の光景は近くにありながら決して近づくことはできなかった。
この場において、わたしは『傍観者』であることしか許されていない。どうしようもない自分の無力さに、わたしはただ慟哭する。
――八叉様が、目を醒まさない。
つかつかと落ち着いた足取りで、白火主命は動かない八叉様の身体へと歩み寄る。
やめて、とわたしは声にならない声で必死に叫んだ。これ以上、彼に触れないで、近づかないで……!
その叫びは音にならず、白火主命の耳に届くこともない。無表情に白火主命は八叉様の傍らに立つ。そして、わたしはさらなる絶望的な変化に気がついた。
横たわる八叉様の身体が、まるで風化していくかのように徐々に崩れだしたのだ。
八叉様という存在が砂のようにさらさらと零れ、風に削られ、消えていく。彼の存在を最初からなかったものにする勢いで。
それは、あっという間の出来事だった。
冬の初めに舞う風花のように彼の存在は儚く溶け、愕然とそれを見守るしかないわたしの目の前で痕跡も残さずに霧散していく。
からん、と彼の胸元を飾っていた鏡が地面に転がった。それを身を屈め、白火主命が拾い上げる。
そして今や、八叉様の名残をとどめるのは地に落ちた影だけとなる。
……影?
水たまりに一滴の水滴が落ちたように。
ぽつん、とその影の表面に波紋が浮かんだ。
ゆらりと泡立った影の波は、やがてじわじわ拡がっていく。
淀みに泡が浮かび上がるように、その水面が歪む。禍々しいのに目が離せない、恐ろしい光景。
地の底から、何かが目覚めようとしている。蠢き、身をよじりながら、死の気配が近づいてくるのがはっきりと感じられる。
この感覚は以前、ここで穢れを目にしたときのものと同じ。
ということはまさか、あの穢れがもう目覚めてしまったってこと……?
影はゆるやかに何かを形作っていく。
徐々に明らかになっていく、黒い頭巾を目深にかぶった人影……。
――八叉様?
どうしてそう思ったのかは、わからない。
頭巾の奥の顔も、髪の色も見えない。まとう雰囲気だって、八叉様の眩いばかりの明るさとは正反対の乾いた死の気配。
それなのに、どうしてだろう。わたしはそれが災いなどではなく、八叉様ではないかと真っ先に思ってしまった。その一縷の望みに縋ってしまった。
八叉様、と声にならないわたしの呼びかけが届いたように、その影は緩慢な動きで顔を上げる。
「……っ!」
その頭巾の中がちらりと目に入った瞬間、いくぶん空回りしながらも再び動き出していた思考が完全に停止した。
――無だ。
頭巾の下にあるのは、ぽっかりとした虚無。直視すれば引きずり込まれてしまいそうな虚空に、わたしは慌てて全力で視線を引き剝がす。
『死神』……そんな単語が、頭をよぎる。それでも、わたしはソレが八叉様であるという考えを捨てきれない。
『この祭りで半身を失ったアイツは……何になる?』
白火主命の最後の助言が頭に蘇る。もう少しで掴めそうなのに、掴みきれない正体。




