終章 最後の祭祀(1)
虫の声も途切れがちで眠たげで、時計の針も時折歩みを忘れたように間延びする――そんな草木も眠る、丑三つ時。
するりと部屋から抜け出した人影がひとつ。誰も起こさないようにと足音を忍ばせ、そろそろと慎重に隣の部屋へと歩み寄っていた。
ドアの軋みをできる限り抑え、わずかな隙間からするりと部屋に忍び込む。そのしなやかな身のこなしは、野生の猫のよう。かすかな風だけを揺らして、住人が眠りに揺蕩う枕元へとやってくる。
そこで、ぴたりと足を止めて。人影は沈黙を保ったまま、ベッドの上の人物にじっと視線を注いだ。まるで、眠りの守護者のような佇まいで。
……たっぷり五分はその姿勢でいただろうか。やがて、人影はそっと大きな溜め息をついて身体を引いた。
手を伸ばしかけて、目の前のその頬に触れる前に思い直したように静止する。ゆっくりと流れる、呼吸三つ分くらいの躊躇うような間。
そして、そろそろと気配は離れていく。もう一度静かにドアが開き、廊下をぼんやりと照らす常夜灯の灯がほんの少しだけ部屋の中に差し込んだ。そのかすかな明かりを背に、人影はゆっくりと名残惜しそうに振り返る。
「……おやすみ、司紗」
絞り出されたのは、狭い部屋の反対側にすら届いたかどうか怪しい程の弱々しい囁きで。それでも満足したように、気配はそっと遠ざかっていく。
そして。
「本当に、何も言わずに行っちゃうんだ……」
息を潜めてその様子を窺っていたわたしは、かぶっていた布団から抜け出しながら唇を尖らせたのであった。
――明日の白神大祭について何も伝えてくれず、ただ覚悟を決めた表情で夜を過ごしていた八叉様。その様子に不安を覚えて見張っていたら、案の定、この出奔である。
まさか、別れの挨拶すらなしで居なくなってしまうとは思わなかった。
耳をそばだて、足音を確認する。階段を駆け下りて、彼の気配を追って裏口の戸を開けた。
――ひとりで居なくなるなんて、許さない。せめて最後まで一緒に付き合わせてほしい。
これがわたしの我が儘だなんて、そんなこと承知の上での選択であった。
八叉様の後を必死に追いかけるうちに、いつしかわたしは御坐山へと足を踏み入れていた。
それを不思議に思うこともなく、ひたすら脇目も振らずに足を進める。
違和感に気がついたのは、それからしばらくしてのことだった。
――どうして月も出ていない真っ暗な夜の中、わたしは迷いなく山の中を歩いているのだろう。
――どうしてこれだけ長い間駆け足で進んでいるというのに、まったく息が切れないのだろう。
――そして、どうして。
わたしの足は、止まらないのだろう。
夢の中を彷徨うような不思議な感覚。
わたしというちっぽけなイチが、いつの間にか大きな流れの中に取り込まれている。もう、自分ひとりの都合で立ち止まることはできない。
わたしを構成する核は溶け出し、何かもっと大きな存在の一部へと呑み込まれていく。その、包まれるような絶対的な安心感。
無数の光の枝が拡がり、わたしとつながっていく。わたしは還っていく。元居た生命の根源に。
――ああ、そうか。
わたしは、ここで自分の勘違いを悟る。
今までわたしは、神というものを構成する最も重要な部分は、他にはない稀代な存在にあるのだと思っていた。
しかし、違う。こうして流れに組み込まれると、それがはっきりとわかる。
むしろ神の神たる所以は、その圧倒的なまでの普遍性と、それ故の俯瞰性にあるのだ。森羅万象すべての存在はその一部に過ぎず、一瞬だけ切り離され、そしてまた大元に還る。
わたしもまた、同じように……。
――行っちゃダメだ。
どうして? そこが、本来あるべき場所なのに。
――わたしは……しなければ。
何を?
――わたしは……。
わたし? ……あれ、ワタシッテナンダッケ?
突然、ガシッと左腕を掴まれた。
はっと意識が戻り、目を見開く。
しかし、視界に映るのは脳を焦がすようなチカチカする妙な眩しさだけ。闇の中には、何も見えない。眩暈を覚え、地面にへたり込んだ。
そのままの姿勢でじっとしていると、やがて焦点が徐々に合いはじめる。夜の山の景色が、ゆっくりと回りながら目の前に広がっていく。
ぎりぎりと血が止まるほど強く握られた左腕。その痛みが、魂をわたしの身体を帰していくようだ。その感覚を頼りに、自分が再び構成されていくのが感じられる。
此処に在るという実感。それと同時に、つながりが切られた孤独感に絶望する。
「身の程知らずが」
そんな千々に乱れる感覚をようやく落ち着いて受容できるようになった頃、不愉快だと言わんばかりの吐き捨てるような口調が、わたしに投げつけられた。
「あ……貴方は……」
なんとか呼吸することを思い出したわたしは、声を上げようとして思わず喘いだ。新鮮な空気が肺を満たし、焦りすぎてあふれ出し、逆流して噎せ返ってしまう。
落ち着け落ち着け、と胸の裡で何度も言い聞かせながらゆっくりと酸素を嚥下する。
「真実を見据える度胸も責任感も持たぬ人間風情が、神の道を犯すとは……」
左腕を掴んだまま、高所から射貫くような視線でわたしを見下ろす、白火主命。
なす術もなく、わたしは呆然とその姿を見上げた。宵闇に浮かび上がる、血が通っていないかのように白く透き通った白火主命の顔。そこに浮かぶ感情は、相変わらずわたしには読み取ることができない。
「見届ける覚悟があるのか?」
淡々と、白火主命は口にする。一瞬、わたしに向けた質問だと気がつくことができなかった。
「え?」
唐突な言葉に、ぽかんと彼を仰ぎ見る。その真意が、まったく読めない。
わたしの鈍い反応を無視して、白火主命は言葉を続ける。
「覚悟があるのなら、アイツに悟られぬように連れて行ってやろう。言葉を交わすことは叶わないが、見届けるくらいはさせてやる」
「どうして……」
状況が呑み込めないわたしに、白火主命はふぅっと諦めたような、達観したような溜め息をついてみせた。
「余は、人間が嫌いだ。だが、勘違いしているかもしれないが……アイツのことは嫌いではない」
「……?」
「誰にも理解されないなんて、哀しすぎる」
相変わらず彼の言葉は高所的過ぎて、わたしには意味が分からない。
それでも、これが本来なら手に入れることのできないチャンスだと悟ったから。
「お願いします、わたしも八叉様の儀式を見届けたい!」
迷う余地なんて、どこにもなかった。
わたしの答えを聞いて、白火主命はわたしの額に手を当てた。そっと瞼をなぞられ、わたしは目を閉じる。
「最後の助言だ。この祭りで半身を失ったアイツは……何になる?」
え、と訊き返す間もなく、白火主命の手がぐっと押し当てられた。途端にふつりと視界が途切れる。
本来なら、目を閉じてもある程度の光や明暗程度は知覚できるものだ。しかし、今はそれすら感じられない。
切り離された、完全な闇。
自身の身体を認識することすらできず、ずん、と奈落の底へ落ちていく――。




