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第七章 雨が、降る(3)

 言葉が出ないわたしを前に、つと八叉様が歩き出した。その姿を何気なく目で追う。

 沈黙を保ったまま窓まで歩み寄った八叉様は、そこでカーテンを勢いよく開け放った。


 窓際いっぱいにパァッと茜色の空が広がる。

 その眩しさに息を呑み、つられて思わず立ち上がった。


 いつの間にか、雨は完全に上がっていた。いくつかの薄い雲を残しながらも、空一面には夕焼けが広がっている。

 空だけでなく、景色一帯を塗り込める朱。

 あちこちにある大きな水たまりにもそれが明るく映り込み、大地を染める。その夕焼けに黒々と浮かび上がる山の影が、ハッとするほどよく映える。


 人の目を奪う、鮮血のような朱。しかし、それは決して暴力的ではない。「帰りたい」と思わせるような郷愁と優しさを湛えた光。

 その空はあまりに遠くて、狂わされた遠近感は沈みゆく太陽を手に届きそうな程近くに見せた。


 目の前に現れた見慣れているはずの景色の美しさに、言葉も忘れてひたすら立ち尽くす。気づけば自然と寄り添って、ただ同じ空をずっと見ていた。


 太陽が隠れるにつれ、空はしっとりと夜の色に染まっていく。気の早い星がいくつか瞬きはじめ、藍色のとばりがゆっくりと下りてくる。

 山際はまだ赤く燃えているのに、上空はもう夜の装いだ。紺色の空は高度を下げるにつれ、オレンジを帯びていく。

 その境にわずかに藍色のラインが走っている。いくつもの色が重なり合い、いざなう黄昏時。




 そっとわたしの肩に八叉様の手が載せられた。いつの間にかわたしのすぐ後ろに佇んでいた八叉様。その静かな息遣いを、背中が敏感に受け止める。

 そっと引っ張られ、彼の誘導に従って床に腰を下ろす。そのすぐ後ろから、八叉様の両腕が私の肩、そして胸へと回された。

 後ろから抱きすくめるような、この姿勢。首筋をくすぐるこの感覚は、彼の髪だろうか、それとも呼吸だろうか。背中にぴったりと、彼の体温を感じる。泣きたくなるような甘い、痺れそうなほどの切ない感覚。


 こんなに密着しているというのに、彼の存在は不安になる程に軽い。

 触れている。温かな熱が伝わる。彼の重みも感じる。――それなのに、それが簡単に消えてしまいそうなこの心許なさは、何だろう。

 どんなにキツく抱き締めても、彼を留めておくことはできないのだと強く思い知らされる。それはまるで、風のように。


 透明な静けさを保ったまま、開かれたカーテンの向こうの空が完全に夜の色に染まっていくのを二人で眺める。ゆっくりと崩れていく、時の砂。

「司紗にひとつだけ……ひとつだけ、頼みがあるんだ」

 ぽつり、と虚空の中に八叉様の呟きが落とされた。


オレは、司紗に出会えて本当に良かった。オレはずっとひとりで、そしてそれがいつまでも続くものだと思っていた。そのこと自体に不満はなかったけど、それでもどこか空っぽの感覚があった。これがきっと……寂しいという感覚だったんだろう」

 ふっと照れくさそうに洩らした笑みが、わたしの髪を撫でていく。


「でも、今は違う。これからは、違う。たとえ司紗と別れようとも、出会った事実は消えはしない……」

 だから、と掠れた声で八叉様は続ける。わたしの肩を抱く腕に、ほんの少し力が篭った。


オレは、この夏のことを決して忘れることはないだろう。いつまでも、些細な思い出のひとつひとつまで胸の裡に残り続けることだろう。……司紗にそうあってくれとは言わない。ただどうか」

 一瞬間を置いて、八叉様は絞り出すように最後のひと言を言葉にする。

「どうか、オレのことを覚えていてはくれないだろうか……」


 ――それは、神様の最初で最後の、ひとつだけの願いごと。

 願いを、呪いを受け止め続けた彼の、初めて獲得した大切な想い。




「忘れるわけ、ないじゃん!」

 思わず声が大きくなった。

「この夏が、八叉様との出会いが、かけがえのないものなのは、わたしだって同じ。バカにしないで……わたしが八叉様を忘れるなんて、絶対にないんだから!」

 激情に語尾を震わせながら、わたしは必死に言い募る。

「約束する。わたしはいつまでも、八叉様と過ごしたこの夏の思い出を守り続ける。絶対……何があっても、忘れたりなんかしない!」


 わたしの迫力に呑まれたように、八叉様はしばらく言葉を切った。

 やがて、ありがとう、と掠れた声とともに、八叉様はもう一度わたしの背にゆっくりと体重を預ける。


 八叉様、と声をかけようとしてハッと言葉を切った。……首筋に、冷たい雫が当たる。

 気づけば八叉様の身体が、わずかに震えている。静かな彼の呼吸音に、耳を澄ませないと聞こえない微かな嗚咽が確かに混じっている。


 ――泣いて、いるのだろうか。

 振り向くこともできず、わたしは石のようにじっと固まったまま背後の気配に集中する。


 出会ってからずっと、たとえ自身の根幹が揺るがされようとも、彼が涙を見せることは一度もなかった。頑なに、それが自分の矜持きょうじだというように、弱さを見せようとしなかった。


 少しだけ迷い、わたしは前を向いたままそろそろと右腕を後ろに回す。やや窮屈な姿勢であったが、八叉様のさらさらとした髪がその指先に触れた。その手触りを楽しみながら、わたしは何度も何度もその髪を手でいて彼の心情に寄り添う。

 寄りかかる八叉様がわずかに身動ぎ、頷いた。


 お互い、交わす言葉はない。

 何を口にしても、これ以上の意味を為すことはないだろう。




 ――神とヒトとは分かり合えない。

 それでもわたしは、確かにヒトとして八叉様に一番近い存在を自認していて。



 だからわたしは、黙って彼に肩を貸すのだ。




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