第七章 雨が、降る(2)
プルルルルル……。
無機質な電子音が、この緊迫した空気を切り裂いた。
その音に、わたしはハッと八叉様から手を離して振り返る。勉強机の上に置かれたスマホに表示される、「白神ちとせ」の着信通知。
そうだ、スマホで連絡してみれば良かったんだ――そんな当然の発想すら浮かばなかったことに驚き、自分が異常な程に激昂していたことをようやく自覚する。
「もしもし、ちとせ⁉︎ 山崩れは大丈夫? 皆、無事?」
電話に出るなり、ちとせの言葉を待たずに矢継ぎ早に質問を浴びせた。スマホの向こうで、ふっと笑うちとせの息遣いが聞こえる。
『うん、大丈夫。心配してると思って連絡したんだ。家族皆、ケガひとつないよ。裏の崖が崩れて駐車場と庭の一部は埋まっちゃったけど、それだけで済んだ。まぁ後少しズレていたら危ないところだったけど……』
「そうなんだね、本当に良かった……!」
『消防の人たちが来てくれたから、これから避難するよ。つぅちゃんも気をつけてね』
最低限の状況を知らせる、あっさりとしたやり取り。やがて、ツーツーという素っ気ない通話の終了音が流れ、わたしはスマホから耳を離した。
無事だったのだという実感と安堵がひたひた胸を満たしていく。強張っていた力が抜けて、気がつけばずるずると床に座り込んでいた。
「…………!」
――そうして床の上でホッとため息をついたところで、ようやくわたしは自分の行動を客観的に認識しはじめた。目の前にいる八叉様の気配を察して、反射的にバッと顔を伏せる。
脳裏に蘇る、自分の暴挙。
相手を責めながら懇願した、無様な姿。
なりふり構わずただ縋り、相手をなじる。助けて、と。どうして叶えてくれないの、と。そんな身勝手な怨嗟の声。
そのひとつひとつが胸の裡で鮮明に再現され、後悔が己の心を切り刻んでいく。
――誰かの願いを背負うとは、つまりはそういうことなのだ。
崇められ、敬われ、求められた存在は、一方でそれと同等に……いやそれ以上に理不尽に糾弾されてきた。無責任な祈りを押しつけられ、不条理な怨みを受け止める。それが、彼の日常だった。
そんなこと、彼と夢を共にするようになってからずっと分かっていたはずだったのに。
「八叉様、さっきは……本当に、ごめんなさい。わたし……」
わたしはうつむいたまま、必死の思いで謝罪を口にする。顔を上げて、彼の表情を知るのが怖い。
人間の身勝手な欲望に晒され、すり減り疲弊しようとも、そこに在り続けた八叉様。そんな姿を知っているのは、わたししか居なくて。
――だから、わたしは。
――せめて、わたしだけは。
彼を神様扱いすることは、したくないと。彼を孤独にはさせまいと。
……そう、心に決めていたはずだったのに。
「司紗」
温かな柔らかい声で名前を呼ばれて、わたしは恐る恐る身体を起こした。ただし彼の視線を受け止めることはできず、視線は逸らしたままだ。
それでも、顔を見なくてもわかっていた。きっと、八叉様は微笑んでいる。いつもと変わらない、神様の表情で。
……わかっているからこそ、それをこの目で確かめるのが嫌だった。
八叉様はきっと許してくれている。笑って、「気にするな」と言ってくれる。
それがわかっていながらも、勝手なことにわたしは彼に泣きそうな顔をしていてほしいと願ってしまった。わたしの言葉にだけは傷ついてほしいと思ってしまった。
彼の支えになりたいと思っていることは、嘘じゃないのに。
誤魔化すことのできない自己矛盾に、わたしの魂は切り刻まれていく。
「司紗」
もう一度名前を呼ばれる。
覚悟を決めて、わたしは目線を上げた。二人の視線が、一直線にぶつかる。
――予想通り、彼は微笑んでいた。予想外だったのは、その表情だった。
砕けた鏡に映されたような、その表情。それはパーツごとに見れば完璧なのに何処かチグハグで、簡単に崩れ落ちてしまいそうな脆さを孕んでいた。
まるで笑顔と泣き顔を一緒くたにしたような、出来損ないの笑い方。
「八叉様……」
「良いんだ」
もう一度謝ろうとしたところで、八叉様はきっぱりと首を振った。
「人の子の望みとは、そういうものだ。身近な存在を守りたいというのは、古来からずっと続いてきた自然な感情なのだから」
「違う、違う……!」
『神様』としての言葉なんて、聞きたくなかった。彼には、『八叉様』というひとりの存在として居てほしかった。
自分の失言が原因だというのに、わたしは聞き分けの悪い子供のように首を振って彼に縋る。
「神様なんかじゃなくて良い、八叉様が犠牲になってまでこの地を救う必要なんてないのに……!」
――ずっとそう思ってきた。そのはずだったのに。
結局わたしは、最後の最後に彼が『神様であること』に縋ってしまったのだ。
一度口にしてしまった言葉を取り消すことはできない。打ちひしがれるわたしを前に、八叉様がふっと息をついた気配がした。
無意識のうちに、目を上げる。彼の穏やかな瞳と目が合った。夜の安寧を体現した、ゆったりと包み込む優しい黒色。
八叉様はゆっくりと首を傾げ、唇を吊り上げて悪戯な笑みを浮かべる。
「我は、傷ついたぞ?」
「――っ!」
言葉だけ見れば、わたしを責めるただのひと言。
でも、それは。
八叉様の特別でありたいという、わたしのちっぽけな想いを。
築いてきた関係を一瞬で瓦解させたという、わたしのやるせない後悔を。
すべて、すべて。
見通した上で、受け止めた優しい言葉だった。




