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第七章 雨が、降る(1)


 ――翌朝。


 殴りつけるように激しく窓を叩く音に、わたしは目を醒ました。

 枕もとの時計が指し示す時間は、朝の五時前。この時期ならもう空は白みはじめている頃合いなのに、カーテンの向こうに光は見えない。

 ガタン、と窓ガラスが大きく悲鳴を上げた。気の所為か、部屋も微かに震えているように感じる。

 一体何の音だろう……寝ぼけながらも、わたしは起き上がってカーテンを引く。


「…………っ!」

 そこで、驚きにひゅぅっと喉が鳴った。

 窓ガラスの向こうに見えた空から落ちる雨。あまりに久しぶりすぎて、懐かしさすら感じられるその景色。

 恵みの……というには暴力的過ぎる勢いで、それは地面を叩きつけるように絶え間なく降っていた。


 強い風があるのか、その雨は急な角度で尾を引いて家を、草木を打ちのめしていく。息をつく暇すら与えず降り注ぐ雨粒。その水飛沫で、わずか数メートル先も霞んでしまってよく見えない。

 空を見上げれば、目に映るのは胸苦しさを覚えるほど低くのしかかる灰色の重く分厚い雲。その身を空に預けることができなくなったように、雨雲は大粒の涙を落としていく。ひと粒ひと粒の雫が地面にばしゃりと着地するたびに、地面が揺れるような錯覚に襲われる。


「……始まったな」

 いつの間に来たのか、八叉様がわたしの横で落ち着いた様子で呟いた。

「白神大祭を明日に控えた今、穢れの力もここまで増してきたか」

「大丈夫、なの?」


 何に対しての『大丈夫』かわからぬまま、そんな言葉が零れる。八叉様は困ったように肩を竦めた。

「ああ。オレが正しく迎え入れられたことで、彼奴きゃつは明日の白神大祭までは目覚めることができない。今日だけであれば、この土地に降りかかる災いもそう大した事態にはならないだろう」

「それなら、良いんだけれど……」


 加減を知らず、疲れることもない雨風の吹き荒れる空。

 技術の発展した現代においても、それは見ていて心細い気持ちを駆り立ててくる。荒れ狂う大自然を前に、自分は無力なのだと心底思い知らされる。どれだけ心配しようと、わたしにできることなど何もないのだから。

 かといってそんな不安な気持ちではもう一度寝なおすこともできず、結局わたしは二度寝を諦めて部屋を出た。




 人は不安になると、身を寄せ合うものらしい。

 大雨警報が出され自宅待機となった我が家では、いつの間にかリビングに家族三人が集まっていた。ごはん以外で家族全員がこうして一室に揃うのは、最近では珍しい光景だ。

 特に何かを話すわけでもなくそれぞれの時間を過ごしながらも、皆は不安げに外の様子に耳をそばだてる。


 突然、フラッシュが焚かれたような眩い閃光が窓ガラスの向こうを走り抜けた。間を置かずして、その後に大地を殴りつける轟音が響く。そのあまりにも暴力的な雷鳴に、反射的にびくりと身が竦んだ。

「……落ちたな」

 誰に向けたでもなく、父がぽつりと呟いた。


 雨脚は朝から弱まるどころかいっそ強まったようで、もしかして雨はこのままずっとやまないのではないかと不穏な想像が頭をもたげる。

 雨水はもう地面に染みこむこともなく表面を滑り落ちていき、いつの間にか家の前には小さな川ができていた。


 家族は皆落ち着かない様子で、そわそわと立ったり座ったりを繰り返す。

 ぴろりん、とスマホの通知音が鳴り響いた。『避難勧告が発令されました』――無機質な画面が表示される。

「今更避難なんて言われたって……」

 市からの広報に、忌々しげに父が吐き捨てる。最寄りの公民館に行くには、この大雨の中で山を下りなければならない。その方が、よっぽど危険だろう。


 カチ、カチと刻む秒針の音がうるさい。ウチの時計に秒針なんてついていただろうか。

 苛立ちを覚えて見回せば、本棚に置かれた父の腕時計が目に入った。そんな微かな音でさえ耳の奥にだんだん降り積もって、溢れだしそうになる。じわじわと追い詰められる逃げ場のない閉塞感に、気持ちが狂わされていく。


 空はぼんやりと薄暗いままで、時の経過には鈍感だ。引き延ばされた時間は些細なことで崩れそうな、危うい均衡で支えられている。

 途切れることのない雨の音に徐々に精神も浸食されて、不安と憂鬱は自分という存在を蝕んでいく。淵のぎりぎりまで満たされた、何かをきっかけにすぐ氾濫しそうな緊張感。




 突然、地面がぐらりと揺れた。

 形容しがたい地響きが家の外で鳴り響く。風の音とも雷の音とも異なる衝撃。

 また例の眩暈か、と一瞬考えたものの、両親が切迫した表情で窓へ駆け寄ったのを見てすぐにそれが現実と知れた。


「山崩れ……?」

 窓の外を覗いた母が、掠れた悲鳴を上げる。その横で、親父が呻いた。

「おい、あっちの方角はもしかして白神さんの……」

 ちとせの苗字を耳にした途端、わたしは弾かれたように飛び出していた。

「司紗、何処に行くの!」

 制止する母の声を背中に、わたしは玄関の戸を乱暴に開け放つ。


「嘘でしょ……?」

 目の前を流れる、雨水の川。それはいつの間にか、透明な清流から荒々しい濁流へとその身を変えていた。

 山肌を削り取った濁った茶色。その水のやって来る方向へと、絶望的な想いで目を向ける。その先にあるのは、ちとせの家のはずだ。


 ちとせの無事を確かめなきゃ、と傘も差さずに駆け出そうとしたわたしの腕を、がしっと父が掴んだ。

「馬鹿な真似をするんじゃない」

 諭すような声で、父はわたしを叱責する。

「消防には連絡しておいた。これ以上我々にできることなんてないし、今外に出ても危険なだけだ」

 ――ああ、その大層御立派な正論は、今のわたしには何も響かない。


 玄関の前で立ち尽くすわたしに、横殴りの雨が容赦なく吹きつける。ぐっしょりと背中は濡れ、前髪からぽたぽたと雨の雫が落ちていく。

 それでも、ぐらぐらと不安で煮え立つわたしの頭はまったく冷める気配がない。

「ほら、家に入るぞ」

 動こうとしないわたしに痺れを切らして、有無を言わせず背中を抱えて父がわたしを家の中へと連れ戻す。




 ――そこまでは、記憶にある。

 焦燥感にチカチカ明滅する瞼の裏、そして不安で呼吸もままならない息苦しさも。


 そして理性の焼き切れたわたしは、気がつけば自室で八叉様に縋りついていたのだった。

「ねぇ、どういうこと? 大した事態にはならないって、八叉様、言ったじゃない……!」

 彼の両肩を掴み、がくがくと揺さぶる。焦りは完全にわたしを支配していて、何の抵抗もせず詰問を受け止める八叉様の反応にも疑問を持つことはなかった。

「山崩れは、もう起きないだろう。しばらくしたら、雨もやむ……」

 淡々と八叉様はわたしに告げる。

「この土地に、さしたる影響はない」


「そんなこと、どうだって良い!」

 彼の言葉は、わたしの激情をさらにたぎらせた。

「土地なんか、どうだって良いの! そんなことより、ちとせはどうなるの? ねぇ、ちとせは大丈夫なの? こんな雨、早くやませてよ。ちとせを助けてよ。だって八叉様は……」

 はやる言葉はどんどん喉から溢れだし、とどまるところを知らない。大きく息を吸い、わたしは一喝した。


「八叉様は、()()()()()()()!?」


 悲鳴のような絶叫を上げ、肩で荒い息をついた。





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