第七章 君と過ごす日々
八叉様が元の力を取り戻してから、周囲の空気は明らかに変わった。
どこか淀み、破滅の気配を孕んでいた日々。それに押しつぶされまいと足掻けば足掻くほど泥濘にはまっていくような閉塞感。そんなわたしたちの頭を押さえつけていた淀んだ空気はさっぱりと消え、得体のしれない焦燥感に駆られることもなくなった。
一時期ピリピリとしていた教室も、以前のようにクラスメイトが談笑する景色が戻ってきた。失って初めて気がついたこの日常の大切さ。
「あ、司紗! 掃除当番、お疲れーっ!」
校門前でホウキを手にそんなことを思いながら黄昏ていると、帰り支度を済ませた梓が昇降口から飛び出してきた。
「ウチは今日、バイトなんだー。新商品出たし、司紗もまたヒマな時に寄ってよ! んじゃ、また明日!」
早口に言いたいことだけ言って、梓はまた元気よく走り出していく。
「うん、また明日! ちゃんと周り見て走ってね、危ないよ!?」
わかってるって~、という梓の返事は風に乗ってどんどん遠ざかっていった。そんなエネルギーに満ち溢れた彼女の背中を見送っていると、つい口元から笑いがこぼれてしまう。
「もうっ、梓ったら……」
誰に宛てたものでもないわたしの呟きは、舞い上がる風にかき消されていく。胸の裡にほっこりと灯る温かな火を感じながら、わたしはゆっくりと空を見上げた。薄い雲は風に乗って、緩やかに青空を流れていく。
――少しだけケンカっぽくなってしまった梓との関係。それも最近になってやっと、周囲の空気が落ち着きを取り戻していく中で仲直りを果たすことができた。
夏休み前に関係が戻って、本当に良かった。あの状態で夏休み期間の長い断絶を迎えてしまったら、今までのような関係を取り戻すことはできなかっただろう。そんなの、想像するだけでも心がギュッとなってしまう。
まだ少しぎくしゃくした雰囲気はあるけれど、これを乗り越えたら梓とはもっと仲良くなれる。そんな気がする。
……うん。それもこれも、きっと八叉様のおかげだ。
ホウキをしまって、教室へと戻る。
定期テスト終了と夏休み開始の間のオマケのような一週間。授業の終了も早いため、この時期の放課後は学生たちの恰好の息抜きタイムとなっている。だから、もう教室には誰も残っていないだろうと思っていたのだが……。
「あれ、八叉様。もしかして待っててくれた感じ?」
――ひとりだけ。がらんとした教室の中で、ぽつんと八叉様はわたしの席の前に佇んでいた。
窓から差し込む、夕方の静けさを纏った陽の光。まだ外は明るいけれど、長く伸びた影が夜に向かって手を伸ばし始めている……そんな夕方の猶予期間。
外の景色を逆光に受け止めて、八叉様はゆっくりと振り返った。彼の眼差しがわたしに向けられるまでのわずかな一瞬。その一瞬のすべての瞬間を切り取りっていつまでも保存したいくらいに、わたしの胸は高鳴っていく。
わたしの姿を認め、八叉様の唇から嬉しそうな笑みがほころんだ。そんな表情の変化が、どうしようもないほどわたしの心をくすぐる。
「ああ。司紗に渡したいものがあってな」
嬉しそうな顔とは裏腹にぶっきらぼうな声で、これを、と八叉様は手に握っていた何かをわたしの手のひらに乗せる。
「コレって……昨日の球技大会用に体育委員が作ってたミサンガ? あれ、でも色が違うね……?」
首を傾げながら受け取ると、八叉様は目を逸らしてぽつりと付け足した。
「……ああ。我が、作ったんだ」
「えっ、八叉様が?」
「ああ、そうだ! 想いを込めて紐を編んでいく、ミサンガという風習が面白いと思ってな! 梓に教わって、神たる我が司紗の健勝を願って、ミサンガを作ったのだ! 光栄に思え!」
言いながら八叉様の声はどんどん乱暴に、怒っているかのような響きになっていく。しばらく呆気に取られてその姿を見ていたけれど、彼が照れているのはしっかりと伝わってきた。じわじわと身体の内側から喜びがこみあげてくる。
「……うん、ありがと。すごく、嬉しい」
気取った言葉なんて何ひとつ出なくて。なんとかお礼を口にしてから、あらためて渡されたミサンガを見直す。
球技大会で作ったミサンガはチームカラーのブルーをメインにした色合いだったが、これはオレンジや赤といった明るい色が多い。
「その色は、司紗をイメージして選んだ」
しげしげと眺めていると、八叉様ががしがしと頭をかきながら説明をする。照れ隠しの行動なのはわかるけれど、せっかくの美しい髪が乱れてしまうのはちょっと勿体ない。
「オレンジ、赤、黄色……能天気で底抜けに明るい司紗に相応しいだろう?」
少し意地悪な言い方だが、確かにその色の組み合わせはわたしにピッタリだ。
「それじゃ最後のこの白色は、八叉様の色かな」
八叉様の説明を聞いて、するりとそんな言葉がこぼれ出た。特に何かを考えたわけではなく、口をついて出た素直な感想。それなのにそれを聞いた途端、八叉様の顔が見る見るうちに朱に染まっていく。
「なっ、司紗……それは……」
「あっ、そんなわけないよね! 変なこと言っちゃった、ごめん……!」
八叉様の反応に、慌てて自身の発言を取り消した。自分の顔も赤くなっていくのを感じる。
なんて自意識過剰な発言をしてしまったのだろう。純粋な八叉様の厚意を、そんな風にピンク色のおめでたい解釈をしてしまうなんて。
「いや……間違っていない」
それなのに、しばらく黙りこくってから八叉様はぽつりと呟いた。
「あいにく銀色の紐はなくてな。白になってしまったが……そう見えるなら、良かった」
「っ! そっ、そうなんだ……!」
「白神大祭も、近づいてきた。儀式が終われば、我も地上には居られなくなるだろう。その前に世話になった司紗に何か思い出の品をと、思ってな」
「……うん、そっか」
――八叉様としては、その言葉に特段深い意図はなかったのだろう。次に控えている予定を見据えて淡々と事実を口にしているだけ。
だけど、わたしのフワフワした喜びの気持ちは一瞬で萎んでしまった。わたしには、八叉様と会えなくなる未来への覚悟なんて全然できていなかったから。
絶望に塗り潰されていく胸の痛みにどう対処したら良いのかわからなくて、わたしは言葉少なにお礼を言う。
「ありがと、一生大事にするね」
「一生」なんて言葉、高校生のわたしが軽々しく口にしたところで、きっと大人は誰も真面目に取り合ってはくれないだろう。
……でも。
ふわりと風に膨らんだカーテン。時刻を告げるチャイムの残響。雑然と並んだ机と椅子。
そして、わたしの目の前に佇むわたしの大好きな、大切な人。夜空のような色合いを浮かべた瞳がわたしを映す、この瞬間。
この切なさを、喜びを。
――わたしは、「一生」忘れない。
週末更新をお休みします




