第六章 再びの御坐祭(4)
「さっきは悪かったな。司紗に何の相談もしないで、白火主命に勝手なことばかり頼んで……」
ちとせと別れて家に帰ってから、八叉様はあらためて先ほどの出来事を話題に出した。
じっと真っ直ぐな視線を向け、彼は真剣な面持ちでわたしに向き合う。月影を浴びて佇む大人びたその姿は、今までにない魔性の美しさのようなモノを発している。愁いを帯びた表情の危うい翳りすら、人を狂わせる魅力を放っているかのようだ。
まだ見慣れない、新しい彼の姿。その姿が視界に入るだけで、わたしの胸が痛いほどに早鐘を打っていく。頬が熱くなるのを感じる。落ち着いて彼と向き合うことなど、到底できそうにない。
気づかれない程度に目を伏せて、わたしはううん、と小さく首を振った。
「謝らなくて良いよ。むしろ、嬉しかったから」
「嬉しい?」
きょとんと首を傾げて、八叉様はわたしの顔を覗き込む。そのあどけない仕草はかつての八叉様そのままだ。……ただ、それが目に眩しいほどのイケメンになったことで、わたしの方が耐えられなくなってしまっただけで。
つい目を逸らしてしまったわたしを見て、八叉様はしょうがないなぁと言うようにフッと息を洩らした。すっと伸ばした彼の手が、ぽん、ぽん、と軽くわたしの頭を撫でる。そっと確かめるように、肩のあたりで切り揃えられたわたしの髪を優しい手つきが弄ぶ。
「なぁ、どうして嬉しかったんだ?」
吐息のような囁き声が、頭上から降ってくる。わたしの言葉をねだるように、甘えるように。
振り払おうと思えば簡単に振り払えるのに、わたしはカッと昇る熱を感じながらその場に立ち尽くすことしかできない。彼の息が触れるほどの近い空間に閉じ込められる――そのことにどうしようもない喜びと恍惚を覚え、思わずその身を震わせてしまう。
「教えてくれ、司紗……」
「だ、だから……っ!」
脳髄をしびれさせるような甘い響きに、これ以上精神が保たなかった。うつむいたまま、わたしは必死に声を絞り出す。
「わたしたちとの時間を、八叉様も大切に思っていたことが嬉しかったの……!」
照れ隠しに多少ツンケンした声になってしまったことすら、八叉様は見透かしているようだ。くつくつと喉の奥で笑う声が、頭上から降ってくる。
「もうっ、揶揄わないでよ……!」
唇を尖らせて抗議の声を上げれば、ようやく八叉様の手はわたしの髪から離れていく。
「すまなかった、司紗があまりに可愛らしくてな」
さらりと口にするその言葉が、相手にどんな影響を及ぼすのか考えてほしい。
「だが……司紗は、不安じゃないのか?」
「? 不安って?」
急に真面目な口調になった彼の言葉に顔を上げると、八叉様の握りしめた右手と不安そうに下がった眉が目に入った。そういうところ、変わらないなぁとつい唇に微笑が浮かぶ。
「白神大祭から外れて、我が儀式を行なうことが不安じゃないか、と聞いてるんだ」
「へぇ、つまりわたしの信仰を疑っているんだ?」
冗談めかして返すと、八叉様は苦笑いで首を振った。
「てか、あれだけ白火主命と信頼関係が成り立ってるなら、白神大祭なんてしなくても普通に協力して穢れを祓うことだってできるんじゃない?」
特に深く考えずに思いつきを口にすると、八叉様は驚いたように目を見開く。
「まさか、司紗は……白神大祭がどういうものなのか知らないのか?」
「へ? どういうこと?」
「いや、奥木の伝承や我のことを調べていると言っていたから、てっきり白神大祭のことも知っているものだと……」
ぶつぶつと、八叉様は言い訳のような言葉を口にする。
「ああ、そういう意味ではもちろん、白神大祭のことも調べてるよ。白火主命が八叉彦命を呼び出して、八叉彦命は白火主命の支配のもとで協力して穢れを祓う……それが白神大祭でしょ? その穢れを八叉様じゃなきゃ祓えない理由はわかっていないけど……。あれ、もしかして前提が間違ってる?」
「いや……そうか。何も、間違ってはいない」
わたしの確認に、八叉様は即座に首を振る。しかし、その迅速な反応が却って何かを隠しているようにも思えた。
「まさか、わたし何か大事なことを見逃してる? それならそうと言ってほしいんだけど……」
「いや、ない。大丈夫だ」
きっぱりと、八叉様はわたしの言葉を切り捨てる。
「その説明で間違っていないし、伝承がそうなっていることを聞けて我も嬉しい」
――そう言い切られてしまうと、それ以上踏み込みようがない。
釈然としないけれど、渋々引き下がることにした。
「我はな、司紗」
不満そうな顔のわたしを笑って見下ろすと、八叉様はどこか遠くへと視線を向ける。
「自分の意志で白神大祭に参加することができて、本当に嬉しい。司紗の……皆の役に立てることが、本当に嬉しいんだ」
どこまでも無邪気で真っ直ぐに、八叉様はあふれ出る自分の感情を言葉に乗せる。
ふぁさ、と銀色の髪が夜風にそよぐ。彼方を見つめる八叉様の陶器のようにすべらかな頬を月が白く照らし、ヒトならざる者の織りなす幻想的な色彩を泳がせた。
思わず目が奪われる。その存在を、ただただ尊いと感じる。ただ、その尊さが今は哀しい。
「……うん、そっか」
何と答えたら良いかわからなくて。わたしはぎこちなく、ひと言だけ相槌を打って言葉を切った。
――そう。その時のわたしは本当に何もわかっていなくて、鈍くて。
その言葉の真意を知ったのは、もうすべてが遅すぎてからだった。




