第六章 再びの御坐祭(1)
そうして迎えた、翌晩。丸い大きな満月が夜空を照らしていた。
「ああ、綺麗な月だ」
言葉少なに、八叉様は夜空を見上げてぽつりと呟く。夜を照らす月はいつもよりずっと手元に近くて、星をかき消すほどに明るい。
「そういえば、西洋ではこうした月は不吉とされているらしいな」
触れられそうなほど近くに見える月に手を伸ばしながら、思い出したように彼は口にする。夜空を見上げる彼の瞳はどこか切なげだ。
「勿体ない、あんなに綺麗なのに」
「綺麗だからこそ……かもしれないよ」
――美しいものは、人を惑わせる魔性を持つ。それは、八叉様を見ていると心から納得できる言葉だった。
夜闇にありながら、まるで光るように浮き上がる白くすべらかな肌。そしてその中心に位置する、夜空を溶かし込んだような不思議な色合いの濡れた黒い瞳。夜の精霊もかくやという佇まいは、彼の姿を見慣れているはずのわたしであっても呼吸を忘れて見とれてしまうほどだ。
しかし、当の本人はその答えにぴんと来なかったらしい。しばらく考えてから、小さく首を傾げる。
「……そういうもの、だろうか」
「うん、そういうもの」
軽く笑い合って、星空を見上げながら歩き出す。
――もしかしたら、今日が最後の日になるのかもしれない。
そんな不吉な考えは今でもわたしの胸をざわつかせるけれど、もう心が揺らぐことはない。穏やかな気持ちで八叉様と肩を並べる。
やがて三つ目の足音が、近づいてきた。振り返ると、ちとせが軽く手を振る。本当はちとせが来る必要はないのだけれど、わたしたちを心配してわざわざ夜に奥木神社まで来てくれたのだ。
「良い夜ですね、八叉様」
ゆっくりと歩み寄った彼は、わたしたちが見ていた空へと目を向ける。
「まるで月が、鏡のようだ」
「鏡」
思いがけない比喩に、吸い寄せられるようにもう一度視線が空へ泳いだ。
――濃紺よりずっと深く染み入る夜空に、魂が投げ出される。
そのぽっかりとした中空で、言葉というカタチを与えられた夜の光が一層輝きを増した。
白く何処までも透き通った月光。ちとせの言う通りまさに鏡のような煌めきで反射するそれは、わたしの身体を貫き、足元に曖昧な月影を落とす。
それを感じながら、わたしはひたすら落ちていく。
空を墜落しながらも、わたしはずっと月に魅入られている。
満ちた月は、精緻な円ではない。その僅かな歪みや欠けのハーモニーが重なり、調和した美しさとなって、人の心を捉えて離さない。
その姿が、昨夜八叉様が掲げてみせた銅鏡と重なる。
――ああ、そうか。
知らないうちに声に出ていたらしい。ちとせの不思議そうな眼差しを感じ、意識が自分へと還っていく。
――だから、今夜なのかもしれない。
「鏡というのは……」
まだ少し魂を奪われた状態のわたしの横で、ちとせが口を開く。
「蛇神信仰と相性が良いそうだよ」
「蛇神信仰と?」
ぼんやりと彼の言葉を繰り返しながら、首を傾げる。
蛇ということであれば、八叉彦命にも関わる話だ。そう思って八叉様の方へ目を向けるが、彼はひらひらと手を振って先に本殿へと進んでいる。
「カガミという単語は、蛇の古語の『カカ』からきているという説があってね。……蛇の目には瞼がないでしょ? 常に世界を見ていて、隙がない。鏡はそんな蛇の目によく似ている。だからそれに見立てられて、『カカ』の目……つまりカガメ、やがてカガミになった――と」
「カガメ……」
常に世界を見ているという表現は、単純でありながら胸をつくほどに正鵠を射ていた。
――神は、眠らない。瞬くこともない。ただ、じっと見ている。片時も休まずに。
「じゃあ、つぅちゃん頑張ってね。成功を祈ってる」
黙り込んでしまったわたしに、ちとせはそう言って優しく笑いかける。わたしはうん、と小さく頷いた。
「ありがと、行ってくるね」
――静かに進むわたしを、月は黙ったまま明るく照らす。
月影を伴に寄越して。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
禊を済ませ身を清めると、わたしは本殿へしずしずと進み出た。
それだけで音もなく戸が左右に開き、中で静かに坐した八叉様が目に入る。
目を閉じ、清閑な時に身を任せたその姿。そこには目の前に居るのにまるで幻のような、空気と一体となった風のような透明感があった。
すっと八叉様が目を開く。それだけで、周囲の空気がぴりりと厳かなものに引き締まった。
八叉様の手が、鏡を捧げる。その先に向き合うように置いてあるのは、御坐祭で神輿が運んできた依代となるはずだった鏡だ。それが、まるで月の光を浴びたように白く光を放ちはじめた。
それに呼応するように、八叉様の手にある鏡も輝きはじめる。まるで生き物の胎動のように、ゆったりとした律動のある光。
輝きは徐々に強くなる。むしろ鏡は光っているのではなく、その身を光へと転じているかのようだ。
徐々に輪郭を、存在を失い、ぐにゃりと光の中へ溶けていく。曖昧な姿の中で、向かい合う鏡がお互いを切ないまでに呼び合っているのを肌で感じる。
すっと八叉様が足を踏み出し、鏡を手にしたまま御神体へと近づいた。
眩いばかりの光が落ち着きを取り戻し、二つの鏡は淡く揺らめきながら形を取り直す。八叉様は流れるような動作で、その二つの鏡を重ね合わせる。
あ、と声にならない声が喉の奥で洩れた。
二つの鏡はぶつかることなく、ぴたりと合わさった。光が絡まり合い、二つは徐々に融合していく。
元の、本来の姿に戻ろうとするかのように。
慎重に八叉様はそっと手を離す。ひとつの鏡が一瞬だけズレて二つに存在し、そしてまた音もなくイチとしての存在を取り戻した。
理由もないのに、今だ、という確信がわたしを突き動かした。八叉様から渡されていた祝詞を取り出し、わたしは言霊を紡ぎはじめる。
「天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス……」
――何故だろう、わたしの目に映るのは文字ではない。
文字を認識する必要はない。ただ、心がわたしの中に侵入ってくる。わたしはそれを、喉から湧き出す感情を声に出して外へ溢れさせるだけ。
「アチメ オオオ オオオ オオオ」
――嗚呼、魂が震える。
――呼び覚まされる、遠い、遠い名も無き記憶。
光の波がすべてを呑み込み、押し流していく。周囲の景色は光の中へ音もなく溶け入る。
眩しくはない。ただただ、圧倒的で、暖かくて、そして何処か懐かしい。
――そう、わたしはこの景色を知っている。出逢っている。
覚えているわけがなく、忘れるはずのない輝き。
わたし達が生まれ落ちた時、初めてこの世と対面した時。
ああ、そうだ。その時もこうしてこの輝きに満ちた世界に迎え入れられた。この身に、誕生の歓迎を一身に浴びた。
「――――」
わたしの口から溢れるのは、最早声ですら無い。カタチをなくした大気の響き。
それが、響く。合わせて光が波打つ。身を委ねる。
何も見えず、ただ包まれる。
――創始まりの世界に。




