第六章 再びの御坐祭(2)
やがて、ゆっくりと時が流れはじめた。
魔法が溶けたように、周囲は存在を取り戻していく。
動き出した世界と、ひとり囚われたまま動けない自分。
艶やかな銀色の長い髪が視界に拡がった。八叉様と同じ色の……それよりずっと長い髪。
それは戸から差し込んだ月の光を受け、まるでそれ自体が輝きを帯びているかのように神秘的に風に流れる。
その髪に隠れ、顔を伏せたその人物の表情は分からない。
言葉の出ないわたしの目の前で、その人は落ち着き払った様子でゆっくりと立ち上がった。
彼の輪郭だけがくっきりと、明かりのない本殿の中に浮かび上がる。美しい髪が、さらさらと零れていく。その向こうに見える静かな双眸。徐々にその顔立ちが露わになっていく。
黒目がちでキラキラとした生命力を放っていた瞳は、切れ長のミステリアスな眼差しへと変化していた。無邪気で悪戯だった笑顔はシニカルでやや冷笑的なものに、中世的でしなやかだった体つきは長身の大人びた姿に。
――八叉様の面影を残した、けれど八叉様とは異なるその姿。
装いや身体的な特徴は八叉様を引き継いでいても、彼の特徴であったあどけなさや純真さは跡形もなくなっている。目の前のその人が漂わせるのは、厳かで近寄りがたい静謐な空気。
――八叉様は、もう居ない。
その狂いようのない事実が、ゆっくりと理解となってわたしの思考に染み入っていく。取り返しのつかない後悔、虚無感、そして寂しさがわたしの胸を締めつける。
「礼を言おう、天生の末裔よ」
幾分低くなった彼の声が、わたしの耳をくすぐる。
「おかげで我は、本来の力を取り戻すことができた」
堂々たる断言。無理に虚勢を張らなくても、人間を盲目的に跪かせることのできる圧倒的な高位としての存在感。
背伸びをして一生懸命胸を張っていた小さな八叉様のことを心の裡で思い返しながら、わたしは顔を伏せて頭を下げる。頭を垂れるよりほか、この存在と向き合う術はない。こちらに視線を注いでいる彼の顔を仰ぎ見ることなど、できるはずもなかった。
……その目が、意識せず目の前の彼のきゅっと握りこめられた右手を捉えた。
緊張と不安を握りこむ、八叉様のいつもの仕草。
その意味を認識するよりも早く、無意識のうちにわたしは勢いよく顔を上げていた。
その姿を直視したら目が潰れる、という原始的な畏怖の悲鳴を無視してわたしは彼の顔を覗き込む。黒と青の混ざる不思議な色合いの瞳に浮かぶ、優しい光。そしてそこに渦巻く、拒まれるのを懼れる不安の色。
「八叉様……」
泣き笑いのような情けない声で、わたしは声を上げる。
この推測が正しいなんて確信は、何処にもないけれど。それでも彼と過ごした時間の積み重ねに縋って、わたしは無理にでも笑顔を作ってみせる。
「おかえり、すごく格好良くなったね」
ふっ、と少しだけ。彼の引き結ばれていた薄い唇が緩んだ。
それは極寒の雪の中で一輪の梅の蕾が花開くような、ともすれば見逃してしまいそうなわずかな綻び。春の訪れを予見する、微かな雪解けの囁き。
でも、わたしはそれを見逃さなかった。そして痛いほどにピリピリと張り詰めた厳格な周囲の空気は、ただ彼の不安を示していただけに過ぎないことを悟った。
「あぁ、司紗……」
彼の声も震えていることに、今更ながらに気がつく。たっぷりと、お互いの感情が飽和するほどの間を置いて彼は告げる。
「ありがとう、ただいま」
――いつもと違うのは、見上げるほどに成長した八叉様の風貌と、低くなった彼の声だけだった。
わたしの言葉を肯定してくれた彼の返事。それを耳にした途端、再会の喜びに反射的に八叉様に抱きつこうとしてしまって、慌ててその衝動を抑えた。
つい以前の少年だった頃の彼を相手にしているような感覚で接してしまいそうになったが、中身は同じでも目の前に居るのは年頃の青年。しかも絶世のイケメン。今までほとんど感じていなかった異性を急に意識してしまって、頬が熱くなっていく。
それなのに、相対する八叉様の感覚は全然変わっていないようで……躊躇ったわたしに気づかなかった彼は、そのままふわりとわたしを抱きすくめる。
「ちょ……!」
慌てて身じろいだが、確かめるようにわたしを強く抱きしめる彼の腕はびくともしない。
今まで彼の頭は自分の胸のあたりにあったのに、今度はわたしの方がすっぽりと包まれるように立ち位置が逆転している。
八叉様の柔らかな頬が、わたしの頭にすり寄せられる。彼の吐息が、わたしの耳にかかる。それだけで耳朶が一気に熱を持ったようにじんじんと疼くのを感じた。
自分より少し温かな体温に囲われる。その閉じ込められた空気が心地よく、くらりとそのまま身を委ねたくなってしまう。
「もう一度こうして司紗に触れられて、本当に、嬉しい」
絞り出すような、血を吐くような彼の切実な独白。胸がざわりと熱く波立つのを感じた。
ああ、そうか――彼の言葉を聞いて、火照った感情の中で一部だけ残った妙に冷静な部分が、呟く。
わたしは八叉様のことを好きだと思っていたけれど……。
――こういう風に、好きだったんだ。
「っ、もう、近いってば!」
自らが導き出した結論に耐えきれず、わたしはどん、と腕を突き出して無理やりに彼から距離をとった。
その自分のものではない体温から離れると、どうしようもなく騒ぎ出す感情が少し落ち着きを取り戻す。そして、それと同時にその隙間に空いた空間の寒々しさに気がつかされてしまった。
言うべき言葉を見失って、わたしはくるりと振り返る。今度は彼と目を合わせるのが怖いのではなく、照れくさい。
今のぐちゃぐちゃになった感情のまま彼と接していたら、自分が何をしでかすかわからない。
「ホント、成功して良かった。ちとせにも報告に行こ!」
背を向けたまま早口でそう言って、逃げるように本殿を出る。
外で待っていたちとせが、勢いよく出てきたわたしを見て驚いたように顔を上げた。その視線がわたしの背後へと移り、驚きの表情はそのまま見る見るうちに凍りついていく。
「大丈夫、成功したよ!」
その反応が八叉様を傷つけるのではないかと、わたしは慌ててちとせに手を振ってみせた。ここで二人の関係がぎくしゃくしてしまったら、さらにややこしいことになってしまう。
「ああ、ちとせもありがとう」
背後から響いた八叉様の声にびくりと背中が反応したが、あえてわたしは振り返らない。




