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第四章 御坐山(5)


 つぃっと、暫くの間無言で足を進めていたわたし達の目の前を細い蜻蛉とんぼが横切った。湖が近くなってきたきざしだ。

 夏でもひんやりと冷たく、清浄な水をたたえた破邪湖。ここは蜻蛉にとっての理想郷のようで、湖畔には一年を通じて様々な種類の蜻蛉が飛び交っている。

 中には此処にしか生息していない希少な種も居るようで、国の天然記念物にも指定されているらしい。祭祀期間中は神域であるこの湖は禁足地となるため、無闇に人が立ち入らないというのも良いのだろう。

 滑るように空へ消えていく蜻蛉の後をぼんやりと目で追う。


 その先一面に、唐突に湖が広がった。太陽の光を受けた水面がきらきらと反射して、手をかざさないと直視できないほどだ。

「この湖の名は……何というんだ?」

 不意に、八叉様が何気ない調子で尋ねた。

 沈黙を切り裂いたその言葉の調子は、いたって普通だ。だが、横を歩くわたしにはリュックの肩紐を強く握り締める彼の手が見て取れた。緊張を握りこむ、彼の癖。


 ちらりと視線を交わしてから、ちとせが代表して答える。

「邪を打ち破る、と書いて破邪湖と呼んでいます」

「……そうか」

「それが、どうかしたの?」

 それきり黙り込んだ彼の意気消沈した姿に、つい口を挟んだ。


 八叉様は寂しそうに笑って、遠くを見やる。

 少年のいとけなさを残した顔には、不釣り合いな表情。その黄昏の夜空の瞳がたたえるのは、愁いに満ちた郷愁ノスタルジー。眩しそうに目を細めるその先に、一体何を見ているのだろう。

 無言で水際まで歩み寄った彼は、ぽつりと呟く。

「昔、此処は……ハクジャ湖と呼ばれていたんだ」


「――っ!」

 思わず言葉を失った。

 ハクジャ――すなわち、白蛇はくじゃだ。八叉様との関連が、単純明快に示された名前。

 ……たった一文字。だが、その一文字の有無だけで意味合いは大きく異なってしまう。


 かつて、この湖は間違いなく八叉様の湖だったのだ。

 それをわずかに言葉を変えることで、名前の由来を覆い隠した。彼の存在を、抹消した。――古くの神の痕跡こんせきを、跡形も残さぬように。

 その名称の変遷こそ、当時の人間が八叉様を切り捨てたことの容赦ない表われであった。

 新しい豊穣の神を迎え入れた熱狂の裏で、ひっそりと旧弊きゅうへいの神を切り捨てる。……その欺瞞ぎまんが自分たちの心をむしばみ、祟りとして我が身に返ることも知らないで。

 なんと身勝手なことだろう。白火主命の憤りも、もっともなことだ。


 わたしの胸中とはあべこべに、八叉様はいたって穏やかな顔で湖を眺めていた。

 形の良い唇には、何故か軽い微笑みすら浮かんでいる。その春の陽のような温かく柔らかな表情に、哀しみはない。雪解け水のように透き通っていて、濁りのない真っ直ぐな眼差し。

 それが何故か、わたしには無性に切ない。

オレも昔は此処でよく泳いだものだ。真夏であっても水が冷たくて気持ち良く、水底は意外と遠くて……懐かしいな。あれはこの地に人間が来る前のことだったか……」

 その視線に釣られて、わたしも湖に目をやる。




 ――ぐにゃりと景色が歪んだ。


 今よりもっとずっと濃い緑に囲まれた湖……白蛇湖が目に飛び込む。

 鏡のように静まり返った、広漠こうばくたる水面みなも。その上を一匹の白い大蛇が悠々と泳いでいる。


 気持ち良さそうに大蛇が頭を振ると、きめ細やかな鱗から小さな水飛沫みずしぶきがぱっと飛び散った。

 その水飛沫一つ一つが小さな虹を作り、周囲を輝かせる。


 水面へと身を躍らせる大蛇。きらりと白い腹が光に反射し、水の中へと消えていく。

 ゆっくりと渦がドーナツ状に広がり、そして湖は静寂を取り戻す……。




「不思議なものだ。自分が何者かは思い出せなくとも、こんな昔のことはよく思い出せる」

 ぽつりと呟いた八叉様の言葉に、ハッと目をまたたかせた。目をこすりもう一度湖を眺めるが、もう同じ景色は見えない。

 幻覚というには、あまりにもリアルな感覚だった。……むしろ、誰かの記憶をなぞったような。

 ズキン、と目の奥が痛んだ。自分の足が、現実からわずかにズレた地を踏んでいる感覚に襲われる。


「御坐祭の執り行われる場所は、こっちです」

 ちとせの案内に従って歩き出しながら、わたしはもう一度湖を振り返った。


 ――深い水底で、眠りに沈む白き蛇の姿を想像して。





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