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第四章 御坐山(6)


 普段人が足を踏み入れることのない、破邪湖。湖の周辺には基本何もなく、湖面がただ静かに拡がっている。

 ただし、ひとつだけ。ぽつんと離れ小島のように、小さな陸地が頼りなく水面から顔を出している。そこに建つ小さな建物が、八叉様をお迎えする重要なやしろらしい。

「らしい、というのは龍田神社の資料にはほとんど何も書かれていないからで……」

 ちとせにしては珍しい、自信がなさそうな声。

「実際のところ、僕も御坐祭についてはあまり詳しくないんです。他所よその神事に参加することもできないし。やはりご祭神さいじんをお迎えする祭祀は非常に重要な儀式ですから、その内容は秘匿されていて」

 役に立てなくて申し訳ない、と眉を下げてちとせは身を縮める。


「そんなに大したこと、やってるわけじゃないみたいだけどねー。あのお社で御神体をいただいて、帰ってくるだけでしょ?」

「えっ、つぅちゃん御坐祭の内容を知ってるんだ?」

 意外、と言外で述べながらちとせはわたしを見やる。なんとも明け透けな反応。

 まぁわたしが普段からあまり神事に興味を持っていないことは、ちとせにはバレているのだ。その失礼な反応も無理はない。

 そして、残念ながらその印象を覆すほどの知識をここで披露することもできないのであった。

「ごめん、それくらいしかわたしも知らないんだ……」

「それでも良いから、その内容、最初からもう一度教えてほしい」

 食い下がるちとせの横で八叉様もうんうん、と無言で頷く。


 ……なるほど、八叉様にも情報の手持ちがないとすると、わたしのわずかな知識が貴重な情報源になるのだろう。二人の熱い視線を意識しながら、わたしは記憶を懸命にさらう。

「普段あの社には、八叉様の依代よりしろとなる御神体が収められているんだ。それを御坐祭から白神大祭までの期間、ウチの本殿に移すんだよね。そのご神体を移す儀式が、御坐祭ってわけ」

 真剣な顔で八叉様がわたしの顔を見上げる。もう見慣れたはずのその綺麗な黒目がちの瞳に妙にどぎまぎして、わたしは軽く咳払いをした。

「あとは、さっき言った通り。御坐祭の日に神官たちが神輿を担いであの社まで行って、祝詞のりとか何かを唱えて御神体をお神輿に乗せる。それをウチで八叉彦命としてお迎えする、と」


 なんともあっさりした説明。

 この程度の話ならちとせは既に知っているのでは、と彼の顔を見て、わたしはその予想が誤りであることを知った。彼の顔に浮かんでいるのは、新しい知識から何かを得ようとする探求者の面持ちだ。

「じゃあ白神大祭が終わった後、普段は……」

 ちとせは慎重に口を開く。

「もしかして奥木神社の本殿は、空っぽってことになる?」


「っ、確かに! 形として実際に御神体があるのは、御坐祭が行なわれる五月半ばから白神大祭のある八月までの三か月くらいしかないってことになるね」

 今まで知らなかった、衝撃の事実。しかし、ちとせの思考はそこで足を止めることがない。

「いや、何か見落としている気が……」

 自身の思索に深く潜って、独り言を呟きながらしばらくの間考え込んでいる。

 と、突然彼は何かに気がついたように後ろを振り向いた。その視線は目の前のわたしと八叉様をすり抜け、ぴったり社と反対側の方向に向けられる。

「もしかして……」

 意味深な呟きと共に、ごそごそとちとせはスマホを取り出した。


 その横で、八叉様はひたすらに沈黙を貫いている。そういえば、さっきから八叉様の声を聞いていない気がする。彼の様子も気になるが、そのタイミングでちとせが「やっぱり」と合点がてんがいったように頷いたため、意識がそちらに引き戻された。

 ちらりと見えた画面から、彼が地図アプリを起動したことを察する。

「どうしたの?」

 しびれを切らして声を掛ければ、ようやくちとせは自分の世界から帰って顔を上げた。その表情に浮かんでいるのは、隠し切れない興奮だ。


「ほら、つぅちゃん。ここが今居る破邪湖だろ。そして、ここが奥木神社」

 そう言いながら、彼は起動した地図アプリの縮尺を変えていく。徐々に広域を表示していくスマホ。身を乗り出して画面を見るが、彼が何を話すつもりなのかわたしには予想もつかない。

「……ほら」

 ある程度の縮尺で操作を止めると、ちとせの細くて長い指がすっとこの二地点を結んだ。

「本殿に向かって立つと、方角的にちょうどこの社に向かっていることになる。つまり本殿に礼拝するとき、僕らは知らないうちにここを拝んでいることになるんだ」

「本当だ……!」


 ――わたしが普段手を合わせていたのは、空っぽの本殿ではなかった。その先、破邪湖の社に収められている八叉様の御神体を拝んでいたのだ。

「ねぇ、前に八叉様が『空っぽの本殿を拝んでいる』って言ってたの、このことじゃない?」

 思いがけない発見についはしゃいだ声で八叉様に話しかけるが、彼はただ黙ったまま頷くだけ。どうしたのだろう、とその顔を窺うと、気もそぞろで落ち着かなさそうな彼の様子が目に入る。


「どうしたの? 大丈夫?」

 流石に放っておけず、声を掛けた。

 白火主命とのやり取り以降ずっと沈んだ態度ではあったが、今の彼の顔色はあれからさらに悪くなってきている。

「わからない……ただ、ここに居ると胸がざわざわするんだ……」

「気分が悪いの?」

 わたしの問いに、今度ははっきりと首を振る。

「そうじゃない。むしろどちらかというと、たかぶった感覚がする。内側から何かが喰い破って出て来そうな……」

「うわ、それちょっと怖い」

 冗談交じりに身体を引いてみせると、八叉様はにやりと悪戯に笑んだ。しかし、その笑みもやはり何処か浮かない雰囲気だ。


「すまん、司紗。ちょっと行ってくる」

「え? 行くって何処へ……」

 わたしの問いを待たず、八叉様は唐突に走り出す。

 その向かう先は、湖。まっしぐらに水際まで駆け寄ると、八叉様は躊躇ためらうことなくそのまま水の中へと足を踏み入れた。


 ……いや、違う。

 思わず目をみはった。彼の足は、水中に沈まない。水面みなもは優しくその足を受け止めている。

 滑るように水の上を駆けていく八叉様。さざ波ひとつ立っていなかった湖面が、彼の足をつけた場所だけ小さな波紋を作る。

「そうか……オレは、もしかして……!」

 風に乗って、八叉様の鬼気迫る声が耳に届いた。……何に気がついてしまったのだろう。わたしの胸を、不安が覆っていく。

 八叉様の足跡に沿ってできた小さな水の円盤は、お互いにぶつかりあって複雑な図形を創り出していく。じわじわと広がる不穏な気配とは真逆の、美しい紋様。


 湖に芸術的な造形を刻みながら、八叉様は浮島の中へと消えていく……。





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