第四章 御坐山(4)
「ちっ、余が手づから作った雲を喰らうとは……まったくもって度し難い」
白火主命の苦々しい声。空に奪われていたわたしの意識が、たちまちのうちに地上へと戻った。無駄と知りつつも、今度は何をするつもりかと身構える。
しかし、白火主命は無関心な様子で肩を竦め、やれやれと右手をひらひらと振った。
「いつまでも神の関心が自分にあると思わないことだ。もう、お前たちに用はない」
「…………」
そんなことを言われても、安心できるものか。無言でその姿を睨みつける。とはいえ、恐怖には勝てず彼の瞳を直視するようなことはできなかったけれど。
そんな敵意をあらわにするわたしを尻目に、白火主命は八叉様ただひとりと向き合う。
「あの孔に貴様の死体でも投げ込めば、穢れも浄化するかと思ったが……やはり出来損ないにそんな効果は期待できぬか」
「我の、骸を……?」
「ああ。良い考えかと、思ったのだがな」
――そんないい加減な発想で、八叉様を殺そうとするなんて。
「シロ、今のは一体……」
「当の本人は、この有り様だしな」
ふんと鼻を鳴らすと、白火主命は憐れみの籠もった目で八叉様を見下ろす。すらりと背の高い彼は八叉様と相当の身長差があり、見下ろすその視線だけでも威圧感は計り知れない。
しかし、そんな視線にもめげずに八叉様は食い下がった。
「なんだ、あの穢れは……? あんな不浄の固まりが、どうして此処に――あんなものがこの地を汚し始めたら、とんでもない災厄が起こることになるぞ……!」
「穢れの正体も思い出せないまま、か。だがまぁ、ある程度の現状把握はできているようだな」
横柄にそう呟いてから、白火主命は冷笑を浮かべる。
「それで、どうする? それがわかったところで、貴様に何ができるというんだ?」
「え……?」
「先ほどの軽率な行動、余が手を貸さねば貴様は既に孔に喰われていたことだろう。穢れ相手に、まったく歯が立っていなかったな。あの攻撃が、今の貴様の精一杯なのであろう? それで、どうするのだ? 貴様は一応、この地の土地神だったはずだが」
相手がそれに答えられないことを知っていて、追い詰めるように、嘲笑うように彼は頭ごなしに言葉を繰り出す。
「それじゃ、シロは……? シロはどうするんだ? あんな穢れがこの地を覆ったら、新しい土地神であるアンタだって無事じゃいられないはずだ」
一矢報いる、というよりは心から不思議に思って口にされた素朴な八叉様の疑問が、意外にも白火主命を怯ませた。一瞬虚を突かれた顔をした後、白火主命は苦々しげに唇を歪める。
そんな恐ろしい表情であっても彼の美しさが一切損なわれないのは、驚嘆に値するだろう。愁いと苛立ちの暗い感情が焔のように燃え上がり、むしろ彼の美貌を際立たせる。
「はっ、業腹ではあるが貴様の言う通りだ。余も早く有効な手立てを見つけねば、辿るのは貴様と同じ道であろうよ……」
忌々しそうに、闇に沈んだ祭祀場へと視線を投げかける。
「まぁ貴様も土地神モドキなりに矜持があるのなら、せいぜい急ぐことだ。いまのところはまだ余が作る雨のモトを食い荒らす程度だが、日照りが深刻になったその次には何が起きることか……」
「~~~~~~ッ!」
白火主命の言葉を遮るように、突如大音響の咆哮が山を揺るがせた。地面を揺るがすその轟音。必死に耳を塞ぎ、わたしは身体を固く強張らせる。
それは音というよりも、最早衝撃といった方が近い。耳を塞いでもなお強烈なその打撃はわたしの体内をびりびりと震わせ、頭を殴りつける。
くらりと世界が歪む。大地が身をよじる。
耐えきれず、固く目を瞑り地面へとしゃがみこんだ。この地面の揺れは、本物? それとも眩暈が引き起こしている錯覚……?
――しばらくしてようやく轟音がおさまった。そろそろと身体を起こす。わたしに続いてちとせも恐る恐る立ち上がり、きょろきょろと周囲を見渡した。
白火主命が軽く舌打ちする。
「あれの目覚めも、近づいてきているな……」
「ねぇ、一体何が起きているの? 穢れ? 厄災? それって……八叉様と、どんな関係があるっていうの?」
わけのわからない出来事の連続に、もう我慢ができなかった。一度堰を切った疑問は、次々と言葉となって口から零れ落ちてくる。
悲鳴のようなわたしの詰問に驚いて振り向く八叉様と、怒りに染まった白火主命の表情。神々の話に口を挟むなんて、と我に返るが、一度口に出してしまった言葉は取り消せない。
「忌々しい人間どもが。身勝手で自分の都合の良いときしか神を顧みないくせに……そんな奴らを救うために神が駆けずり回らねばならないなど、心底莫迦げた話だ。これは、お前たちの自業自得だというのに」
「一体、何の話……」
「自分たちが御坐祭で犯した過ちを、その粗末な頭で考えてみるが良い。それがわからぬようであれば、お前たちに救われる価値などない」
うんざりした、というように大きなため息でわたしの言葉をあしらうと、ぽん、と白火主命は軽く足元の大地を蹴る。重力を一切感じさせず、軽やかに空へと身を投じた白火主命は冷たい表情でわたしたちを見下ろした。
「助言はした。期待はしていないが……せいぜい足掻くことだ。余のためにも、な」
それだけ言うと彼は再び身を翻し、滑るように風の中へと溶けていく。
ぽかんとした、一種間延びしたような奇妙な沈黙が残されたわたしたちを包み込む。弛緩した空気に一気に脱力感を覚えながら、わたしは祭祀場の方へと目をやった。
相も変わらずその断裂は存在したままで、今の出来事が夢ではなかったことを否応なしに見せつけてくる。そのまま自分が引きずり込まれてしまいそうな恐怖を覚えて、わたしは慌ててその孔から視線を引きはがした。
「シロ……」
途方に暮れたように、八叉様は白火主命の名を呼ぶ。その力ない声は、随分と弱々しかった。
「我は……一体、どうしたら……」
「と、とにかくさっ!」
その場の沈んだ雰囲気を誤魔化すように、わたしは無理に明るい声を上げた。
「ここから離れない? 今ここに居てできることは、あまりなさそうだし、それに……」
――それに、こんな気味悪いところからは一刻も早く離れたい。
わたしの無言の想いは、皆に伝わったらしい。そうだね、と頷いてちとせが一番に踵を返す。その後にわたし、八叉様と続いていく。来たときと逆の順番だ。
「でも、御坐山に来たこと自体は無駄じゃなかったね。今起きている何かしらの事態の一端でも、知ることができたんだしさ」
無駄に明るいわたしの声は、気まずい空気の中で虚しく響く。ちとせがそんな空気を配慮したのか、続いて声を上げた。
「つぅちゃんの言うとおりだね。とりあえず、このまま当初の予定通り破邪湖に行ってみない? 白火主命様がおっしゃっていたように御坐祭に何か問題があったのなら、祭の舞台である破邪湖に手がかりがあるかもしれない」
「なるほど。一理あるな」
迷子のような顔をしていた八叉様が、少しだけ元気を取り戻して頷く。その反応に安堵を覚えながら、わたしはひたすらに足を進めていた。
――遠ざかるわたしの項に背後からねっとりした視線が追いかけてくるような気がしたが、敢えてわたしは振り返らなかった。




