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第四章 御坐山(3)


 わたしの視界が絶望に染まる。

 ――動けない、逃げられない。死の気配に絡めとられ、息をすることすらできずその場に凍りつく。


 と、そのとき。

「邪魔だ。お前ら、下がれ」

 尊大な響きの声と同時に、裂け目の前で立ち尽くしていた八叉様の身体が勢いよく弾かれた。何か強い力で引き剥がされたかのように、彼の身体は吹き飛んでいく。

 ほうけている場合ではない。地面に叩きつけられる寸前だった八叉様を慌てて抱き留めながら、声の主を探してキッと振り返る。

「貴方は……!」

「シロ!」

 わたしの声を遮るように、八叉様が叫ぶ。


 周囲を見回すわたしの視界は、突然ふわりと広がった紺色のとばりに覆い隠された。反射的に払いのけようとした手は虚しく空を切り、それはまるで意志を持つように柔らかく舞い上がる。

 はためく紺は空中でシュルシュルと回りながら、その身を変えていく。柔らかな風が軽やかにそれをひらめかせ……そして、その中から彼は静かに姿を現した。

 空中から突如出現したとしか思えないその登場は、しかしながら如何いかにも自然であった。


白火主しらほぬしみこと……!」

「はっ、凡俗ぼんぞくは礼儀も知らぬか!」

 わたしの敵意に満ちた声を一笑に付し、悠然と彼は腕を組む。わずかな睥睨へいげいで、彼はその場の空気をすっかり支配してしまった。

 蒼ざめたちとせが、崩れ落ちるように地面に膝をつくのがわかった。がくがくと震える身体で、必死にこうべを垂れるちとせ。できることなら、わたしだってそうしたい。でも、そんな余裕はない。

 ちらりと抱き留めた八叉様の表情を後ろから窺う。緊張した面持ちで身構えた彼の姿を確認して、少しだけ安堵を覚えた。――少なくとも、前回のように最初から死を受け入れるつもりはないらしい。


蒙昧もうまいどもが雁首がんくび揃えて、のこのこと……」

 わざとらしく八叉様の顔を覗き込みながら、白火主命はわたしたちを嘲弄ちょうろうする。

「まぁ、その足りない頭で此処ここを思い出したことだけは褒めてやっても良いが、な」




 それがどういう意味か、訊き返す時間はなかった。その言葉を合図にしたように、彼の背後に見える深淵からばふ、と真っ黒な煙のようなモノが巻き上がったのだ。

 思わず視線がそちらに吸い寄せられる。

 ねっとりとした粘り気を感じさせる紫煙しえん。大地の割れ目から突如生じたソレは、わたしたちの目の前でまるで生きているかのように身をくねらせながら空をゆっくりと昇っていく。

 のびのびと青く高く、気持ちの良い空。その下でソレは、蛇の蠕動ぜんどうのような不吉なうごめきで天へと侵攻を続ける。否が応にも不安を掻き立て、目の前の不吉な光景から視線を逸らすことができない。

 言葉も忘れて、その行方ゆくえを追った。ちとせや八叉様だけでなく、白火主命すら肩越しに振り返ってその様子をじっと観察している。


 わたしたちの視線を集めたまま、ソレはやがてぽっかりと浮かぶ片雲まで流れ着く。そこでやっと、白雲に引っ掛かったように一旦その歩みを止めた。

「え……」

 誰が発したのかわからない声が耳に飛び込む。ぽかんとした、無意識のうちに洩れた声。『唖然』という単語を、たった一音で表現したような響き。

 それはもしかすると、自分が上げた声だったのかもしれない。


 するすると、その黒い煙だったソレは姿を変えながら、真っ白な雲へと絡みついていく。捻じれ、のたうちながら変化へんげしたその姿は……蜘蛛くも

 ダジャレか、とわたしの冷静な部分が脳内でツッコミを入れる。でも、まったく笑えない。昆虫の醜い部分を殊更ことさらに強調したその姿は、あまりにも禍々(まがまが)し過ぎたのだ。


 に喰らいつく蜘蛛・・

 のどかな青空に浮かぶおろしたての絵具のような純白が無残に侵され、黒に吞み込まれていく。雲を襲う蜘蛛の色は純粋な漆黒ではなく、ドブのような濁りを内包している。それがますます、凌辱りょうじょく感を増幅させている。

 蜘蛛の持つ八本の長くて細い脚――それは、ふしくれ立ち、関節ごとに小さな棘らしき突起がついた醜悪な触手であった。それが雲を抑え込み、絡め捕り……そうして混ざり合ううちに、徐々に蜘蛛の腹の部分が妙に膨らんでいくのが見て取れた。

 一方の白い雲は、溶けるようにどんどん小さくなっていく。


 それが指し示す意味に気がつき、わたしは嫌悪と驚愕で思わず息を呑んだ。

 ――ヤツは雲を喰っているのだ。


 やがて白い雲は、完全に蜘蛛の胎内たいないに取り込まれた。これで終わりかと人知れず息をつこうとした、次の瞬間。

 一切の躊躇ちゅうちょなく、蜘蛛は次の獲物として自分の脚に襲い掛かる。

「う……」

 猟奇的な姿に、頭がその意味を理解するよりも先にうめきが口をついた。

 雲を食い尽くしても未だ足りない飢餓を抱えているとでもいうのだろうか。一心不乱に自身をむさぼるそのザマは、先ほどの雲を呑む姿よりもいっそうグロテスクで生理的な忌避きひ感を催させる。


 喰らう。

 喰らう。

 喰らう。


 ただひたすらに己を喰らい続け……最後に、ソレは一掴みの黒い雫となった。

「…………」

 次に何が起きるのか予想もできぬまま、ただ固唾を飲んで変化を待つ。

 わずかな時間その黒い雫は中空にとどまり、そして何の脈絡もなく突然地面へと落下した。


 重力を無視するような、妙に緩慢な落下。びちゃり、と聞こえない音が耳の奥にこびりつく。




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