第四章 御坐山(2)
しばらくの間手入れがされていなかったのだろう。祭祀場跡へと続く道は雑草に覆われ、かなり歩きづらくなっていた。
チクチクする雑草にげんなりながら足を進めようとしたところで、ずい、と八叉様が前に立つ。そして、何も言わずに雑草を踏みしだきながら先頭を歩きはじめた。
不器用な優しさに気がつくのが遅れて、とっさにお礼を言いそびれる。
「八叉様……」
慌ててその後ろ姿に感謝を伝えようとしたところで、彼の背中に激突した。いつの間にか先頭を歩いていた八叉様が、その場で立ち止まっていたからだ。
「? どうしたの?」
凍りついたように動かない彼を不審に思い、その視線の先を追う。
途端に、心臓を鷲掴みされたような戦慄が走った。その原因になるものが何なのかを理解するよりも早く、恐怖だけが先走って喉元からこみあげる。
「な、何、これ……」
最後尾のちとせが無意識に後退りするわたしの背中を受け止める。不思議そうにわたしの横から身を乗り出したちとせも、そこで遅れてソレに目が釘付けとなる。
――そこにあるのは、巨大な罅であった。大地を真っ二つにするかのような、奈落へとつながる巨大な裂け目。
地面を抉る黒々とした罅の隙間から、ぽっかりと空いた底知れぬ不吉な虚無が覗く。慌ててわたしは、そこから目を逸らした。一度でもその深淵を直視してしまったら、呑み込まれてしまう。そんな、予感がする。
祭祀場の特徴である意味ありげな岩たち。それらは裂け目の上で、平然とその場に整列している。だからきっと、あそこに踏み入っても堕ちることはないのだろう。
でもそんな判断など、この根源的恐怖の前には何の意味も持たない。……根源的恐怖? 己の思考に、立ち止まる。
そう、それは無へ帰す恐怖。零に呑まれる恐怖。すなわち――死への恐怖だ。
生を受けた者の逃れられぬ定め。一度魅入られてしまったら、そこから逃れることなどできはしない。
ひび割れた奈落の底から仄暗いモヤのようなものが立ち昇っている。それが少しずつ空気と交じり合いながら薄く広がっていくのを見て、思わず口元を覆った。
自分の吸っていた空気が知らぬ間に穢されていたかのようで、嫌悪感に鳥肌が立つ。
あまりの恐怖にそこから立ち去ることもできず、ただ呆然と目の前の光景を見続けることしかできない。
す、と視界の外れで影が動くのを感じて、はっと意識が引き戻された。硬直から解けて視線を移せば、八叉様がふらふらと裂け目に向かって歩き出す姿が目に入る。
「なっ……! 何やってんの……!」
考えるより先に、ぐいとその腕を掴んでいた。
引き寄せられるようなフワフワした足取りだったのに、わたしの制止は思ったよりも強い力で抵抗される。そのまま振り切られそうで、慌てて両手を使って全力でその歩みを止める。
わたしの全力の妨害を受けて、八叉様はようやくゆっくりと振り返った。
「司紗」
にっこりと優しく微笑む八叉様。真っ暗な深淵を背景にして、彼の危ういくらいに美しい表情はくっきりと際立つ。
「大丈夫だ」
そっと手を振り払って、八叉様はもう一度笑う。
「大丈夫って、なんで……っ!」
――ああ、その笑い方は嫌いだ。
何もかも、自分ひとりで背負ったような顔をして。住む世界の違いをまざまざと見せつけて。
そして彼は、それをきっと当然のことだと思っているのだから。
「心配するな、司紗。我に任せておけば大丈夫だ」
言葉をなくしたわたしにもう一度笑いかけると、八叉様はくるりと向き直る。それを止められる言葉を、もうわたしは持ち合わせていない。
黒々とした罅に向き直った八叉様は、とんっ、と躊躇うことなく祭祀場に足を踏み入れた。影に沈んだ地面が、彼の足元だけ淡く光って浮かび上がる。
……一体、何をするつもりなのだろう。
その場に立ち尽くすことしかできないわたしは、期待と不安をないまぜに固唾を飲んで彼の姿を見守る。そっと、ちとせがわたしの肩を支えるのを感じた。
八叉様は軽く息を吸い込むと、ゆっくりと目を閉じる。
「――、――……」
やがて彼の口から、低く抑揚のある唸り声のような歌声のような声が洩れ始めた。それは身体の奥、魂の根底を揺さぶる響き。
それに伴い、八叉様の身体が少しずつ浮き上がっていく。彼の銀色の髪が、まるでそれ自体が意志を持つかのようにざわざわと拡がっていく。
「――――……っ!」
一体いつ息継ぎをしているのだろうかと思うほど長く続く彼の声が、大気を震わせる。
その場の空気が、変質していく。彼の身体を中心として風が起こり、草木が騒ぎはじめる。
わたしは凍りついたように、そこから視線を外すことができない。神秘的で美しくも、どこかおぞましいその光景。
やがてわたしは、彼の周囲をくるくると白い光が回っていることにきがついた。戯れるように飛び回るいくつかの光は、徐々に円形の姿をとりはじめる。
――あれは……鏡……?
ソレの放つ光は、八叉様の声に合わせてゆっくりと明滅を繰り返す。光を蓄えながら彼に付き従うように寄り添い、その周りを舞い踊る複数の鏡。
その鏡が投げかける光に照らされ、大地の裂け目から立ち昇る黒いモヤは居心地が悪そうにその身を縮めた。
「八叉様の光を嫌がっている、ってこと……?」
その反応に、光明が見えた気がする。彼なら本当に、この場を何とかしてくれるのかもしれない。
――すごい、やっぱり八叉様って神様なんだ……!
興奮した想いが浮かぶと同時に、ちくりと胸が痛んだ。普段すぐ傍に居る八叉様が、遠くへ行ってしまったようで。
それが本来の彼なのだ、と冷静に自分に言い聞かせるが、そのことを哀しいと感じてしまう心を否定できない。
わたしがそんな下らない想いに囚われているうちにも、八叉様の放つ光は増していく。気がつけば彼の声は途絶え、耳が痛くなるほどの沈黙が訪れていた。
「奥木を司る八叉彦命が命ずる――」
ふいに沈黙を破った八叉様の声が、凛と響き渡った。
「この地を穢すことは、許さぬ。ただ、疾くと去ね」
それは、逆らうことを許されない神の命令。
――刹那。
彼の周囲を舞う鏡から、滝のように光が迸った。
清らかで苛烈で、生きる力に満ち溢れた眩いばかりの光。光の奔流はその影を、穢れを流し去ろうと一気に祭祀場へと押し寄せる。
黒いモヤが光に触れ、一瞬で蒸発するように消失した。
――やった……!
その光景に勝利を確信したわたしが喜びに飛び上がったその、瞬間。
裂け目が、ぽっかりと大きな口を開けた。
「……え?」
押し寄せる光の洪水が、その拡がった裂け目に呑み込まれていく。裂け目の向こうの虚無に、黒く塗りつぶされる。
浄化の光は裂け目の中にただ流し込まれ……そして消えていく。
やがて、八叉様の光は完全に失われてしまった。
しん、と不吉な沈黙が戻る。目の前に広がるのは、先程と同じ翳に沈んだ祭祀場。
どくん、と心臓が跳ねた。
裂け目の向こうから、何かがこちらを見ている。




