第三章 休日のお出掛け(3)
わたしの感情をあれだけかき乱しておきながら、その後の八叉様の態度はいつもとまったく変わらなかった。ついつい気にしてしまう自分が、バカみたいだ。
彼の後ろを通り過ぎながら思わずその背中を睨みつけたが、肝心の八叉様は友人に借りたという漫画に読みふけっているばかり。そんなわたしの反応に気がつく気配がまったくない。
というか、なんの漫画を呼んでいるのだろう。随分と気に入ったようで、彼は最近同じ本を何度も読み返している。
そんな彼のだらだらとした姿を見ていると、あのとき見せた格好良い姿が幻だったようで。徐々にわたしもいつもの調子を取り戻していって。
そして。
約束の日曜日は、あっさりとやってきたのだった。
神職の日常業務に、土日は関係ない。朝拝の時間になると自然に目が覚めるのは、我ながら優秀な体内時計をしていると言っても良いだろう。
もはや流れ作業にも似た手際の良さで神饌を供え、柏手を打つ。
――梅雨が近い。
天気が良い日には拝殿の向こうに見える御坐山も、立ち込める霞みと雲に覆われ、輪郭がはっきりしない影になってしまっている。念のため、今日は傘を持って行こうか。
背後から、玉砂利を蹴る足音が近づいてきた。
「あれ、八叉様? 珍しいね、もう起きたんだ――」
揶揄うように言いかけて、わたしはふつりと途中で言葉を切った。視界の端に、八叉様とは似ても似つかぬ大きな背丈の影が見てとれたからだ。
「ほぉ? 余をあの小僧と間違えるとは……ぼんくらが。やはり下賤の生き物と交わるのは、無駄でしかなさそうだ」
「なっ……!」
高慢な、他人を見下すことに慣れきった声。そのあまりの言いざまに、思わず文句を言おうと顔を上げる。
……そこで、わたしは言葉を失った。
透き通る朝日に照らされて、薄緑色の地面に着きそうなほどの長い髪がふわりと風に舞う。まるで光の束を集めたかのような不思議な色合いの髪。光の加減がわずかに変わる度に、その髪の上を滑るように虹色の波紋がさざめく。
そのきらめく美しい髪を引き立てているのが、昔の中国の皇帝が着ていそうな紺色のゴージャスで重たそうな衣装だ。重たげで威厳に満ちた堅苦しいその衣装。しかし、目の前の人物はそれをいとも自然に着こなしている。そこから覗く手は、はっとするほど白く眩しい。
……何故だろう、この人の顔を見るのが怖い。そう思うのに、視線は自然とその上へと吸い寄せられていく。
細い首筋、尖った顎。……ダメだ、目が離せない。
視線はどんどん上へのぼっていく。かたく引き結ばれた、つややかな唇。その上の、すっと通った美しい鼻梁。
そして。
「ひっ」
とうとうその瞳をわたしの目が捉えた瞬間、わたしは喉の奥から悲鳴にもならない息を洩らしていた。膝に力が入らず、地面へと崩れ落ちる。それでも、わたしの目はその瞳から離れない。
青く、蒼く、空のようにどこまでも透き通った宝玉のような瞳。しかし、そこにわたしは映っていない。その目はただすべてを写し、そして無を映していた。その佇まいは時間すらも、彼の周りを避けて流れていくよう。
言葉を発することも忘れ、わたしはただそれに魅入られる。自分という感覚が溶けて消え、底のない空虚に引きずり込まれていく。
「ふん、呆れたわ。さらに礼儀も知らぬとは。ヒトの分際で神の目を捉えようとするなど、度し難い。身の程を知るが良い」
高慢に吐き捨てる声。
「あ……あなたは……」
その声をどこか遠くに聞きながら、喉に絡む声をやっとのことで絞り出した。
痴れ者が、と言いつつ彼はゆっくりと背を向ける。
「興が醒めたわ。もう此処に用はない。余は帰るとしよう」
「用、って……」
全身で息をしながら、なんとかそのひと言を口にする。
しかし、彼はわたしと会話をするつもりはないらしい。こちらを一瞥もしないまま、その場を立ち去ろうと背を向ける。
歩き出そうとした彼はしかし、そこでふと動きを止めた。
「ああ、そうだ。貴様……あの小僧をなんだと思っている?」
「……?」
一瞬意味がわからなかったが、先程の台詞と併せて八叉様のことを言っているのだと、思い当たる。
「何って……八叉彦命でしょう?」
ふっと彼が嗤ったのが、背中越しにも感じられた。
「だから……貴様ら人間は愚かなのだ」
その言葉を合図にしたように、ごうっと突風が吹く。
反射的に腕を上げて顔をかばった。強い風が、砂埃を上げて吹き抜ける。
――その腕をおろした時にはもう、彼の姿は忽然と消え失せていた。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「……あれ、わたし、何してたんだっけ」
ふと夢から醒めたように、わたしは呟いた。
どうしてこんなところで座り込んでいたのだろう。朝拝を終えて帰ろうと振り向いたところまでは覚えているのだけれど、その後の記憶が真っ黒に塗り潰されている。
「まさかわたし、歩いている途中で寝ちゃったとか?」
そんなバカなと首を振るが、それ以外に思い当たる節はない。
どこか体調が悪いのだろうか。その場で屈伸をしたりジャンプをしたりしてみるが、身体はいたって健康そのもの。
「まぁ、いっか」
いくら首をひねってみても、わからないものはわからない。特に身体の不調というわけではなさそうだし、と思考を放棄してわたしは家へと歩きだした。
何故か脳裏にぽっかりと空いた天の穴のイメージが浮かんで、消えた。
「八叉様、朝だよー。起ーきーてー!」
部屋に戻ったわたしは、隣の納戸をがらりと勢いよく開けた。腹から出した大きな声の挨拶と共に、足元のタオルケットをがばりと剥ぎとる。
ここ一週間の経験から、起こそうとする気配を察知した八叉様が身を丸めて布団を奪いにくい防御態勢になることは既に想定済み。そんな隙を与えない、勢い任せの不意打ちだ。
しかし。
わたしの予想とは裏腹に、布団の中はもぬけの殻。冷え切った布団は、だいぶ前に彼がここを出たことを物語っていた。
怪訝に思いながらタオルケットを畳むと、はらりと一枚の紙が落ちる。
『先に出ている。九時に駅の時計柱の前で待ち合わせよう』
初めて見る、八叉様の文字。ととのっているが紙片いっぱいに書かれたその力強い文字は、彼の人柄を示すようでつい口元に微笑みが浮かぶ。丁寧に書かれた字に、紙をくしゃりと乱暴に丸めるのが躊躇われて、指先で紙片のシワを伸ばしながら丁寧に畳みなおした。
――それにしても、どうして先に家を出たのだろう。
彼の不可解な行動に、首を傾げた。
先のバスに乗ったのであれば、一時間は待つことになる。何かほかの用事があるのだろうか。
ちらりと壁の時計を見やる。ちょうど、バスが出たばかりのタイミングだ。今から追いかけても、もう間に合わない。
そして次のバスが来るには、まだ一時間ほどある。さて、どうしたものか……。
時計から外れた視線は、自然に机の上の漫画へと移り、何気なくそれを手にとった。昨日、八叉様がやたら熱心にページを繰っていた漫画だ。
一体何を読んでいたのだろうという単純な好奇心と、時間潰しにならないかという期待。意外なことに、絵柄を見るにどうやら中身は少女漫画のようだ。
適当にぱらぱらめくると、自然にあるページが開いた。気に入った場面を何度も読み返していると、折り癖がついて勝手にそこが開くようになる。
今のが、まさにその状態だった。
ぱっと目に飛び込んできたのは、見開き二ページを使って高校生くらいの男女が向かい合う場面。背景に使用された柔らかなグラデーションのトーンが、これでもかと言わんばかりにピンク色の雰囲気を押し出している。
向かい合うのは、ひと組の男女。目つきの悪いイケメンが、顔を真っ赤にしながら優しげな少女に思いの丈をぶつけようとしている。
『俺は、いつだってお前のことを……!』
ばたん、と音がするほど勢い良く本を閉じた。
意味もなく左右を確認してから、ほっと息をつく。
なるほど、少女漫画。
当世の文化を理解し、人間関係について学ぶには格好の資料だろう。八叉様がそれにハマること事態を、とやかく言うつもりはない。
彼がその中の特に告白シーンを何度も読み返していることだって、別に悪いことじゃないとは思う。
――でも、なんだろう。この妙なドキドキ感は。
気を取り直して、再びぱらぱらとページを送った。すると、今度はもっと手前の別の場面が開く。
またも先ほどの男女が、会話を交わしているシーンだ。
ヒーローらしきイケメンは鋭い目つきを和らげて、ヒロインに笑いかける。素直になりたいのになれない、そんなもどかしさを抱えながらそっとヒロインへと右手を伸ばして、彼はヒロインに告げる。
『よし、雪乃。日曜日はお前を独占させてもらうからな』
眩暈を覚えて、再び本を閉じた。
――何という既視感。つい二日前に、まったく同じ台詞を耳にしたばかりだ。
呼び掛ける名前こそ違うものの、それ以外はポーズや表情も含めてこの絵姿そっくりそのまま。これが偶然であるわけがない。
金曜日からの出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け抜ける。
「したいイベントがある」という八叉様の言葉。彼のお気に入りの少女漫画と、お気に入りのシーン。明らかに漫画の内容を意識した、行動。
これらの手がかり、つなげて考えてみると……。
――いやいや。
――いやいやいやいや。
そんな、バカな。




