第二章 君は神様(5)
「で……」
それから数時間後。わたしはがっくりと肩を落として首を振った。
「『帰ろう』で予想はしてたけど、ウチに来るのね……」
猫騒動が終わってから、当然のようにわたしの後をついてきた八叉様。彼はそのまま当然のように我が家へやってくると、当然のように夕飯の食卓に混ざる。
さらにそれを当然のように受け入れる、わたしの家族。
……まあ、そこは良いのだ。ある程度覚悟を決めていたことだったから。
むしろ今、問題なのは。
「ちょっとそこ、わたしのベッドなんですケド……?」
何故かお風呂から出た八叉様はまっすぐにわたしの部屋まで来ると、ベッドの上で我がもの顔で寛ぎはじめたのである。居場所を奪われたわたしは勉強机の椅子に逆向きにまたがって、背もたれに顎を乗せて八叉様を睨む。それなのに、彼は悪びれる様子もない。
「まっ、いくら神様でもいきなり部屋を一つ創り出すなんてできないからなー、仕方ない仕方ない」
「それは理解できなくもないけど、だからってわたしのベッドを取らなくても……」
聞こえない、とわたしの苦情を無視するように、八叉様は枕を抱きしめたままころんと壁側に寝返りを打った。その態度は、まるで本当に子供のようだ。思わず次の言葉を失ってしまう。
どうやら見た目というのは、思っている以上にこちらの判断を狂わせているらしい。可愛らしい少年の姿で上目遣いに視線を向けられると、相手が神様という得体のしれない存在だとわかっていてもついキュンキュンしてしまう。
いけない、と無意識のうちに緩んでしまう頬を無理に引き締め、真面目な顔を取り繕った。
「そんな反応しても、無駄だから。ほら、早くわたしのベッドからどいて」
できるだけ冷たく、突き放した口調で告げる。その反応が意外だったらしく、ベッドでごろごろ転がっていた八叉様はたじろいだ様子で半身を起こした。
……しかし、ほっとしたのも束の間。
起き上がった八叉様は壁際に身体を移動させると、ニヤリと悪い笑みを浮かべる。そして、ぽんぽん、と空いたスペースを軽く叩いてから可愛らしく首を傾げた。
「なんだ、司紗。そんなに言うのなら、半分使わせてやろうか?」
「……っ!」
一瞬、言葉に詰まった。
もはや魔性ともいえる美しい顔。見た目は少年なのに、醸し出す色気にくらりと眩暈に襲われる。
「ばっ、バカなこと言わないでよ……!」
頬に上る熱を意識しながら、必死に上ずる声をととのえる。
「そんな、祟られるようなコト、できるわけないでしょ……!」
わたしにとっては、冗談交じりの軽いひと言。
……それなのに。
パァンッと、受けた衝撃には些か不釣り合いなほど大きな音が、わたしの言葉を遮った。一拍遅れて、痛覚がその音に伴う痛みを伝える。
突然の予想だにしていなかった反応に、思わずまじまじと八叉様を見つめた。手は無意識の内に、叩かれた頬を確かめるようにさすっている。
「祟ったりなど……!」
激情によるやや上擦った八叉様の声。鋭い眼差しは、きっとわたしを睨みつける。
――そのまま顔を見合わせること、数刻。先に折れたのは、わたしの方だった。
「……うん、ごめん。失礼なコト言った」
軽く目を逸らしながらも殊勝に謝罪の言葉を述べ、小さく頭を下げる。
それを受けて、所在なげに振り上げられたままだった八叉様の手が、迷うように下ろされた。うろうろと、視線はわたしの周囲を行ったり来たり、目を合わせずに彷徨う。
「いや……我もいきなり殴ったりして、悪かった」
居心地悪そうにそっぽを向くと、八叉様は少し詰めるようにしてベッドの端に腰を下ろす。ちらり、と視線を送られてその意図に気づき、隣の空いたスペースに同様に腰掛けた。
……しばらく、ぎこちない沈黙が続く。
このタイミングでは、先程のようにどけとも言いにくい。かといって、部屋を立ち去るのも同様に気まずい。どうしたものかと、途方に暮れる。
と、何の前触れもなく、八叉様がくるりと体ごとこちらに向き直った。真剣な面持ちで手を伸ばし、八叉様は包むようにわたしの頬に触れる。柔らかいその手はひんやりと冷たく、少し心地が好い。
「女子の頬を張るなど、悪いことをした……痛みはあるか?」
「ん、大丈夫だよ。ちょっと驚いただけ」
悪かった、ともう一度口の中で呟いて、八叉様はわたしの顔に傷がないか確かめはじめる。
その顔が、無闇に近い。叩かれたのとは別の理由で、頬が熱くなりそうだ。座り直すふりをして、その手をさり気なくどけた。
「まぁ、わたしが軽率なこと言ったのが原因だから。祟られそうとか、全然本気じゃないし。ヒドイこと言っちゃって、ごめんね」
「いや……我も頭に血が昇ってしまった。いくら色気のない司紗が相手とは言え、女子の顔を傷つけるとは」
「もうっ、本当に可愛くないんだから……謝るときくらい、その減らず口をやめたらどうなの」
苦笑いで窘めると、ふん、とそっぽを向きながら彼は照れくさそうに言う。
「まぁでも司紗も見た目だけで言えば可愛いのだから……顔に傷がつかなくて良かった」
「え……?」
告げられた言葉が一瞬理解できなくて思わず聞き返すと、「だーかーら!」と怒ったように八叉様は口を尖らせた。
「色気はないが、司紗の顔立ちは……好ましいと思っている」
ぶっきらぼうながらも、八叉様は口ごもりつつ真っ赤な顔で一生懸命にそう口にする。その姿がなんだか可愛くて。
「おい、こら司紗、ヒトの顔を見て笑うんじゃない!」
気がつけばわたしは、ふふふと声に出して笑っていた。
――そうして一度わだかまりが溶けてしまえば、後は簡単で。他愛もない会話はそうしてだらだらと続く。
やがてその話題も途絶えがちになった時分、頃合いを見てわたしは再び切り出した。
「そろそろ本当に寝るから、どいてもらえない?」
「半分は使って良いと、言ったではないか」
にこにこと邪気のない笑顔で返す八叉様に嫌な予感を覚えた。恐る恐る彼に尋ねる。
「……もしかして、本気で言ってるの?」
「え? そーだが?」
話の通じなさに思わず額に手を当てた。がっくりと脱力したわたしを、八叉様は不思議そうに眺める。
「大体さ、我が家へ来ても司紗の家族は自然に受け入れてくれただろう?」
「? そうですね」
何を言いたいのか読めず、わたしはとりあえず相槌を打った。
「つまり、我がここに居るのが、普通だと思っているわけだ。そして、我が司紗の部屋に居ることも。司紗の部屋に布団は二つもないから、つまり司紗の家族がどう思っているかというと……」
「お母さんっ! お客さん用の布団って確かそっちの部屋だったよねっ!?」
最後まで言わせず、大声でその不吉な言葉を遮った。
突然どうしたのよー、と呑気に笑う階下の母の声が、この時ほど腹立たしく聞こえたことは、ない。




