第二章 君は神様(4)
朝に比べ勢いは衰えたとはいえ、川の流れはまだ速い。
雨上がりの圧倒的な荒々しさこそ身を潜めたものの、人ひとりを呑み込むくらいの力は充分に蓄えたままだ。
だというのに不注意にもそんな濁流に近づこうと、そろそろと川縁の斜面を下りる八叉様の背が見えた。
――あんの、バカ……何やってるのよ!
橋の上からその姿を認めたわたしは、心の中で思いっ切り毒づいた。
どう見てもしっかりしているとは言いがたい恐る恐るといった足取りで、それでも明確な意志を持って彼は川へと近づいていく。
何かに気を取られているのか、視線は自分の足元ではなく目指す先に釘付けだ。
声を上げようとして、寸前で思い止まった。下手にこちらを振り向こうとして、バランスを崩したら却って危ない。
――しかし、そう思い直した矢先。
そんな発想が引き金になったかのように、八叉様の雪駄がずるりと滑った。
心臓が凍りつく。橋の上で一斉に悲鳴が上がる。
「ごめん、コレちょっと持ってて!」
……もう、黙って見ていることはできなかった。近くに居た顔見知りの生徒にカバンを預け、わたしは土手を駆け降りる。
皆が息を吞んだ八叉様の落下は、しかし、尻餅をついてズリズリ少しばかり土手を滑り落ちたところですぐに止まっていた。
ほぅ、と思わず安堵のため息が漏れる。
そうして彼の姿勢が変わったことで、前方の視界が少し拓けた。
――あ。
その先に思いがけないものが見えて、息を呑んだ。
何が八叉様を、無謀なその歩みに突き動かしたのか。尻餅をつき、無様にもがきながらも尚、悲壮なまでに懸命に立ち上がろうとするのは何故なのか。
その答えが、その先にはあった。
――どうしてそんなことになったのか。
恐らく、それに答えられる人間なんて誰もいなくて。
唯一その理由を知っている当事者の猫が、答える代わりに「みゃあ」と情けなく声を上げた。……いや、上げたように見えた。
手の平ほどの広さしか濁流から顔を出していない岩のてっぺん。
そのわずかな空間に、小さな猫が一匹。荒れ狂う川の流れに浚われまいと、小さな足場に必死にしがみついていた。
助けを呼ぶその猫の声は、濁流にかき消されて聞こえない。それでも、「助けて」というそのコの悲痛な叫びは、誰の胸にもはっきりと届いていた。
まるで目を逸らせば猫が落ちてしまうと信じているかのように、橋の上の野次馬たちは皆揃ってその憐れな遭難者から視線を引き剥がすことができずに居る。
食い入るように猫を見つめる見物人達。そうなった原因は知らなくとも、予想される結果については皆ほぼ同様の答えを出すだろう。
――このままでは、いずれ川に浚われて、死ぬ。
助けたい、という気持ちは全員が浮かべているその痛切な表情から読み取れる。……でも、「助けたい」と「助ける」という言葉には大きな隔たりがあるわけで。
誰も、その隔たりを超えて実行に移すことのできた人間は居なかったのだ。
――そう。八叉様を、除いて。
○ ○ ○
「おい、動くなよ……大丈夫だからな……我が助けてやるから……」
そぅっと呼び掛ける声。
猫の目をしっかりと捉えて、ゆっくり土手を下りながら八叉様はそろそろと腕を伸ばす。
……だが、少しばかり遠すぎた。猫は毛を逆立てたまま、岩場から動こうとしない。
寧ろその小さな足場から離れることに怯えを感じたようで、更にその身を丸くして縮こまってしまった。
両者の距離は、縮まらない。
それを見て躊躇う様子もなく、八叉様は片足を水中に突っ込んだ。そして、更に身を乗り出そうとする……その片腕を、ガシッとわたしの手が捉えた。
……何とか、間に合った。
「司紗っ!? お前、何を……!」
現状を何も把握できていない八叉様の声に、ピキッと青筋が浮く。どう見てもあのまま放っておいたら、猫より先に川に浚われたのは彼の方だったろうに。
振り払われてはかなわないと、更にしっかりと握る力を込めた。
「アンタ、バカなの⁉︎ 助けに行ったアンタまで落ちたら、本末転倒じゃない。……ほら、岸から支えとくから」
それでも、彼のその行動を責める気にはなれなくて。ぶっきらぼうな言い方にはなってしまったが、助けに来たことを告げる。
思ってもみない言葉だったのか一瞬虚を衝かれた顔をした後、八叉様はにかっと笑った。
「頼んだ!」
元気な一言と共に、全体重をわたしの掴んだ左手に委ねて前に乗り出す。
――ほれぼれとする程一片の疑いも挟まない、信頼に満ちた身体の預け方だった。
ずん、と下へ引っ張られる負荷に耐えようと足を踏ん張る。
反射的につい腕を引いてしまい、八叉様の手は猫の大分手前で虚しく宙を掻いた。
――わたしたちのこの奮闘は、周囲からはどう見えているのだろう。
そんな埒もない考えが、ふとよぎる。
雨水や泥で汚れて必死に猫を助けようとする姿は、第三者の目には滑稽に映っているかもしれない。
でも、そんなことは構わなかった。
何もできないのに、……正しくはする気もないくせに、ただ「可哀想」と嘯くだけの野次馬たち。そんな無為な高みの見物をしているヤツらに何を言われようと、構うものか。八叉様は、そしてわたしは、彼らにできなかったことをしているのだ。
そう思うと、しばらく忘れていた子供の頃の「正義感」がわたしの中で燃え始めるのを感じる。
橋の上から降る歓声が、ワントーン高くなった。それと同時に、わたしの手がぎゅっと握られる。
前へと視線をやれば、慎重に進んでいた八叉様の立つ位置はいよいよ例の猫まで後少しというところまで迫っていた。
ふっと頬を緩め、ほんの少し身体を前に傾けた。……その微妙な前進が、最後の決め手となったらしい。
猫は、意を決したようにぽん、と足場を蹴る。そして、飛び移るや否や八叉様の腕をするすると登り、肩の上へと避難した。
それを見届けてから足元を確かめ、彼が振り返ったときに体勢を崩しても受け止められるように準備をととのえる。繋いだ手をそっと引いた。
「うん、こっちは大丈夫。こっち向いて、右手も支えるから」
その言葉に素直に従い、慎重に振り返った八叉様が手を伸ばす。
……その、伸ばした右手に流れる鮮やかな赤い血が、はっと目を引いた。
「八叉様、それ……」
「ああ、気にするな」
思わず口をついて出た咎めるような声を、八叉様はあっけらかんと遮った。
――全然、気がつかなかった。
思わず彼の肩の上にしがみつく猫を見やる。
恐らく、八叉様に飛びついたとき猫はまだ怯えから醒め切っていなかったのだろう。猫は爪をしまい忘れたまま肩へ駆け上がり、彼の腕をざっくりと傷つけてしまったのだ。
それなのに、八叉様の様子に全く変化がなかったのは、自分が怯むことで猫が落ちることを案じたのか。
……普通だったら反射的に手を引いてしまいそうなものなのに。
「……もう、バカなんだから」
ようやく水平な地面まで引き上げてから、ぽつりと呟いた。制服のポケットに入っていたハンカチを急いで引っ張り出す。
幸い、傷はそんなに深いものではないらしい。ハンカチで簡単に拭ってやると、傷口はうっすら血が滲む程度になった。これなら放っておいても大丈夫だろう。
「まったく、神様をバカ呼ばわりとは……失礼なヤツだ。我の機嫌が悪かったらその命、消えていたぞ」
咎める台詞とは裏腹に、八叉様はにこにこと嬉しそうな笑顔だ。
そして無造作に肩の猫を抱き上げると、橋の上から一斉に見下ろす見物人達に見えるように高々と掲げた。
「助かったぞーっ!!」
八叉様の声が、河原いっぱいに響く。
おぉ、と言葉にならないどよめきが人だかりから上がる。
やがて自然と拍手が湧く。それは最後には地響きのような圧倒的な響きとなって、救世主である八叉様へと降り注いだ。
わたしの方を振り返り、晴れ晴れと笑って八叉様はもう一度言った。
「司紗、助かったぞ」
何の嘘も打算もない笑顔。
その眩しさに、ああ、神様なんだな、と何故か今更ながらすとんと腑に落ちるものがあった。
未だ視線と拍手を注ぎ続ける見物人達に八叉様はぶんぶんと大きく片手を振ると、猫を地面へと降ろしてやる。
にゃあ、とお礼を言うように八叉様に向かって一声鳴くと、あっさり猫は走り去った。
「守るという言葉はな、司沙」
猫の行先を見やりながら、八叉様は何気ない調子で切り出した。
「もともと見つめるっていう意味なんだ。だから彼らは……」
ふっと言葉を切って橋の上の野次馬を指差す。
「彼らは、守っていたんだよ。」
――それは、無為な傍観者を蔑んだわたしの発想とは、180度相対する考え方。
わたしを見てにっと笑う彼は、先程わたしの考えていたことを知っているのだろうか。
「……やっぱり、八叉様はバカだよ」
振り向かなくても、わたしの声が泣き笑いに震えたことは八叉様にも伝わっただろう。
「本当に、失礼なやつだ」
そう返してから、帰ろう、と楽しげに八叉様はわたしの顔を見上げたのだった。




