第八話 お祖母様は、伝説の美魔女商人でした
第八話 お祖母様は、伝説の美魔女商人でした
マドレーヌ=マルセイユには、誰にも邪魔されたくない時間がある。
それは、朝の商談でもなければ、午後の紅茶でもない。
一日の終わり。
私室のドレッサーの前で、ゆっくりと化粧を落とす時間だった。
「……ふう」
鏡の前に座り、髪をまとめる。
白粉を落とし、頬紅を拭い、口紅を丁寧にぬぐう。
やがて。
鏡の中に現れたのは、六十歳の女性だった。
――もっとも。
年齢を知らない者が見れば、四十歳前後にしか見えないだろう。
「お祖母様?」
扉が開いた。
「まあ、カヌレン」
孫娘が顔を覗かせる。
「どうしたの?」
「少しお話があって……」
そこまで言って。
カヌレンの目が丸くなった。
「……お祖母様」
「なぁに?」
「すっぴんでも、ものすごく若いですね」
「まあ」
マドレーヌは嬉しそうに笑った。
「そうかしら?」
「はい。正直、びっくりしました」
カヌレンは鏡を覗き込む。
「六十歳には、とても見えません」
「褒めても何も出ないわよ?」
「いえ、本当に」
そして。
少し首を傾げた。
「でも、お祖母様」
「なぁに?」
「化粧をすると、私と同じくらいの年齢に見えるから、そっちの方がもっと驚きます」
「まあまあ!」
マドレーヌが楽しそうに笑う。
「可愛い孫にそう言われるのが、一番嬉しいわ」
そう言って。
化粧台の上に置かれた、小さな金色の小瓶を手に取った。
「実はね」
「?」
「この化粧品が、すごいのよ」
カヌレンが目を丸くする。
「それですか?」
「ええ」
金の細工が施された、美しい小瓶。
「これはね、エルフの秘薬が入っているの」
「……エルフの秘薬?」
「そうよ」
マドレーヌは、どこか誇らしげだった。
「森の奥に住むエルフたちが、何百年もかけて研究した美容薬を、私の商会が正規の取引で手に入れたの」
「すごい……」
カヌレンは素直に感心した。
「とても貴重なものなのですね」
「もちろんよ」
マドレーヌは瓶を光にかざす。
「この化粧品を売り出したときは大変だったわ」
「売り出したとき?」
「ええ」
マドレーヌの瞳が、懐かしそうに細められた。
「私が四十歳の頃だったかしら」
「四十歳……」
「この化粧品を完成させたの」
そして。
悪戯っぽく笑う。
「完成品のお試しに、舞踏会へ行ったのよ」
「……え?」
「四十歳の私が二十歳ぐらいに見えたそうよ」
「お祖母様!?」
カヌレンの声が裏返った。
「そ、それは皆さまさぞ驚かれたでしょう」
「そうなのよ」
マドレーヌは得意げに胸を張る。
「会場へ入った瞬間、女性たちが大騒ぎ」
『あの令嬢は誰!?』
『どこの家の方!?』
『肌が信じられないくらい綺麗!』
カヌレンは想像した。
四十歳の祖母が。
二十歳に見える姿で。
貴族の舞踏会へ乗り込む姿を。
「それでどうなりますのですか?」
「もちろん、色々と聞かれたわ」
「どうしてそんなに若いのとかですか?」
「だから答えたの」
マドレーヌは、にっこり笑う。
「私の商会の新商品の化粧品の効果ですと」
「……」
「翌朝には、注文が山ほど届いたわ」
「……さすがお祖母様」
カヌレンは、心から感心した。
「商品を自分で実演したのですね」
「商人はね」
マドレーヌは鏡の中の自分を見る。
「自分の商品を、一番信じていなくてはならないのよ」
「……素敵です」
マドレーヌは嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
◇
「それで?」
マドレーヌが化粧台を片付けながら尋ねる。
「今日は、何の相談?」
「あ……」
カヌレンは、少しだけ頬を赤らめた。
「実は……」
「まあ? 何かしら」
「明日、ルミアンド殿下と王都へ出かけるときなのですが……」
ぴたり。
マドレーヌの手が止まる。
そして。
ゆっくりと振り返った。
マドレーヌの目が、楽しそうに輝く。
「どこに行くかですね?」
「はい、まだ聞いていませんでしたので……」
「ピエール=ピカソンという人気のパティシエのところよ」
「あの最近、大人気なお店ですか?」
マドレーヌは指を一本立てた。
その表情が。
急に真剣になる。
「とても美味しいスイーツを開発したらしいのよ」
「よく予約が取れましたね」
「そこは、それよ。すごく頑張りましたかしら」
カヌレンには分かった。
これは。
祖母が単純に行きたかっただけかもしれない……。
「お祖母様ありがとうございます」
「明日は皆で楽しみましょう」
「ですね」
カヌレンは苦笑した。
マドレーヌは当然のように言う。
「大切な孫が不快な思いをしないか見守りたいわ」
「……私のことが心配で?」
「そりゃそうでしょう。バカ男の次のお相手は慎重にね」
少しだけ。
間があった。
「……もちろんケーキも楽しみかしら」
「お祖母様」
「何かしら?」
「ケーキの方が目的なのでは?」
「そんなことないわ。両方大事よ」
屈託のない笑顔だった。
◇
「でも」
カヌレンが首を傾げる。
「グラッセ様は予定、大丈夫だったでしょうか?」
「グラッセ団長はスイーツ大好きだから大丈夫かしら?」
「え、甘いのが好きなのですか?」
マドレーヌは嬉しそうだった。
しかし、カヌレンの脳裏には違う考えがよぎっていた。
それはお祖母のそばにいたいための口実なのではと。
「では」
カヌレンが笑う。
「予定通り四人で王都ですね」
「そうね」
マドレーヌも微笑む。
――第二王子。
――孫娘。
――騎士団長。
――自分。
どう見ても。
少し変わった組み合わせだった。
◇
ふと。
カヌレンが尋ねた。
「ところでお祖母様」
「なぁに?」
「グラッセ様のこと、どう思います?」
マドレーヌの表情が。
少しだけ変わった。
「グラッセ様?」
「はい」
「そうね……」
鏡を見る。
「あなたのお祖父様に似ているわ」
「お祖父様に?」
「ええ」
マドレーヌは静かに頷いた。
「強くて」
「はい」
「真面目で」
「はい」
「誰かを守るためなら、自分のことを後回しにする」
「……」
「ロレーヌも、そういう人だったわ」
カヌレンは黙って聞いていた。
祖父ロレーヌの話を。
祖母から聞くのは初めてだった。
「昔ね」
マドレーヌは、ゆっくりと話し始めた。
「この国が、ひどい食糧難に陥ったことがあるの」
「……」
「何年も不作が続いて」
「はい」
「王都の人々まで、食べるものに困っていた」
そのとき。
ロレーヌは決断した。
「自分の船をすべて使って」
「……」
「外国から、大量の食糧を買い付けたの」
「お祖父様が?」
「ええ」
マドレーヌは微笑んだ。
「国民を飢えさせたくなかったのよ」
何隻もの船。
穀物。
乾燥肉。
豆。
保存食。
ありったけの食糧を積んで。
ロレーヌは王国へ戻った。
「けれど」
マドレーヌの声が低くなる。
「帰り道で」
「……」
「同業の商団に襲われたの」
カヌレンの目が見開かれる。
「どうして?」
「食糧を独占したかったのでしょうね」
マドレーヌの瞳が。
少しずつ。
鋭くなっていく。
「その商団の長が」
一度。
言葉を切る。
「ドルチェ」
その名前を。
カヌレンは初めて聞いた。
「悪徳商人ドルチェと私は呼んでいるわ」
マドレーヌの指が。
化粧台の上で、ぎゅっと握られた。
「夫は戦った」
「……」
「船と」
「……」
「食糧と」
「……」
「国の人々を守るために」
戦いは。
激しいものだった。
だが。
ロレーヌは勝った。
傷だらけになりながら。
大量の食糧を。
王都へ届けた。
「国は救われたわ」
マドレーヌは言う。
「多くの人が飢えずに済んだ」
けれど。
「ローレンヌは……」
声が。
少しだけ震えた。
「その傷が元で、帰らぬ人になったの」
「……お祖母様」
カヌレンは。
そっと祖母の手に触れた。
マドレーヌは。
静かに目を閉じた。
そして。
ゆっくりと開く。
その紫の瞳には。
いつもの優しい笑顔とは違う。
大商人として。
長年、世界を渡り歩いてきた女性の。
鋭い光が宿っていた。
「カヌレン」
「はい」
「私はね」
静かな声だった。
「ローレンヌが命を懸けて救った人々を、大切に思っているわ」
「……」
「だからこそ」
マドレーヌは。
鏡の中の自分を見つめた。
「ローレンヌを死に追いやった者を」
一度。
ゆっくりと息を吐く。
「忘れたことは、一日もないの」
「お祖母様……」
そして。
マドレーヌは、微笑んだ。
いつもの。
優しい祖母の笑顔。
けれど。
その瞳だけは。
少しも笑っていなかった。
「ドルチェ」
静かな声。
「あいつには、いつか、この借りは返さなくてはね」
カヌレンは。
初めて知った。
祖母が。
ただの優しい祖母でも。
ただの美魔女でも。
ただの大商人でもないことを。
マドレーヌ=マルセイユ。
大陸中の王族と商人たちが一目置く女性には。
今もなお。
胸の奥に。
決して消えない想いがあるのだと。
そんな重い過去を胸に秘めたまま。
マドレーヌは、何事もなかったような顔で言った。
「さあ、カヌレン」
「はい?」
「明日は新作ケーキよ」
「……」
「楽しみね」
カヌレンは。
思わず笑ってしまった。
「はい」
どんな過去を抱えていても。
祖母は祖母だった。
そして。
まだ誰も知らない。
翌日の王都で。
マドレーヌが王都中を困惑させた、
とんでもない騒動に巻き込まれることを。




