第五話 大商人ドルチェの誤算
第五話 大商人ドルチェの誤算
フィルモル王国王都。
豪華な邸宅が立ち並ぶ貴族街から少し離れた場所に、一軒の屋敷があった。
そこは、大陸でも有数の商人――ドルチェの屋敷だった。
「……失敗しただと?」
重苦しい声が響く。
広い執務室。
その中央に置かれた机の前で、ドルチェは眉間に皺を寄せていた。
「はい」
目の前に立つ男が頭を下げる。
「マドレーヌ=マルセイユの暗殺は、失敗しました」
「理由は?」
「王国騎士団長、グラッセが現れました」
「グラッセ……」
ドルチェの顔が険しくなる。
王国騎士団長。
その名を知らない者は、この国の商人にはほとんどいない。
剣の腕は王国随一。
そして何より。
「なぜ騎士団長が、あの女の護衛などしている?」
「それが……」
部下が言葉を濁す。
「マドレーヌの屋敷には、以前から王宮関係者が出入りしていたようで、今回の事件を受けて、騎士団が正式に警備へ入ることになったのかと……」
「……厄介だな」
ドルチェは椅子に深く腰掛ける。
机の上には、大陸各地の交易路を記した地図が広げられていた。
赤い線が無数に走っている。
そのほとんどが――。
マドレーヌの商会、《グラン=マルシェ商会》に繋がっていた。
「食料」
ドルチェが指で一つの都市を叩く。
「香辛料」
別の都市。
「宝石、織物、魔導具……」
さらに別の場所。
「奴は、大陸中の流通を握っている」
ドルチェは苦々しく呟いた。
「二十年前の大飢饉のときから、ずっとだ」
当時。
他の商人たちが価格を吊り上げようとしていた中で、マドレーヌも大量の穀物を買い集めていた。
しかし、大きく価格が吊り上がる前に、適正価格で、各国へ食料を運んでしまったのだ。
その結果、ドルチェたち商人は損害を出し、多くの民を助けてしまった。
民衆の多くが飢えで亡くなり、貧窮した時に、最高値で売りさばこうとしていたのを邪魔された。
一方、彼女は、王侯貴族や、バカまじめな商人や民たちからは、信用を得た。
「善人ぶった女だ。愚かな民衆など助けやがって」
ドルチェは吐き捨てる。
「あの女のせいで、我々がどれほど不利益になったと思っている?」
「……」
「あれから俺は、あの女に復讐しようと考えている」
ドルチェの拳が机を叩く。
「それなのに、あの女は……」
ふと。
ドルチェの頭に、ある人物の名前が浮かんだ。
「そういえば」
「はい?」
「最近、あの女と揉めた貴族がいたな」
部下が少し考える。
「ああ……」
そして。
「あの婚約破棄騒動ですか?」
「そうだ」
ドルチェの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「ガレットン=ローザンヌ」
マドレーヌの孫娘、カヌレンとの婚約を破棄しようとして。
相手を間違えた男。
その結果。
父親であるローザンヌ侯爵から激しく叱責され。
次期当主の座まで失った。
「……これは使えるかもしれんな」
ドルチェは立ち上がった。
「詳しく調べろ」
「ガレットン侯爵令息を、ですか?」
「ああ」
「ですが……」
部下が躊躇する。
「彼はマドレーヌを恨んでいるのでしょうか?」
「恨んでいるに決まっている」
ドルチェは即答した。
「自分の人生が滅茶苦茶になった原因なのだからな」
「なるほど……」
「侯爵家の後継者から外された。恨まないわけがない」
ドルチェは笑う。
「自分をこんな目に遭わせた相手を、憎んで当然だろう」
「では、ガレットンを使って……」
「ああ」
ドルチェは頷いた。
「もう一度、マドレーヌを狙う」
部下は頭を下げた。
「承知しました」
――しかし。
ドルチェは、まだ知らなかった。
自分が利用しようとしている男が。
すでに、自分の過ちと向き合い始めていることを。
◇
ローザンヌ侯爵領。
ガレットンは、自室の窓から外を眺めていた。
以前なら。
この部屋から見える景色は、次期侯爵となる自分の未来そのものだった。
領地。
使用人。
家臣。
そして――。
カヌレン。
「……」
今は違う。
自分が座るはずだった当主の椅子には、弟が座ることになる。
父からは、
『お前に家督は継がせん』
そう言われた。
あの日のことを思い出す。
怒りは、もうあまり湧かなかった。
それよりも。
「……俺は、馬鹿だったな」
ガレットンは呟いた。
婚約者がいるのに他の女性に目が言った。
カヌレンにを蔑ろにした。
そして。
大勢の貴族の前で、婚約破棄を突きつけた。
相手が誰だったかなど関係ない。
たとえマドレーヌが普通の祖母だったとしても。
あれは、自分の間違いだった。
「……カヌレン」
名前を口にする。
今さら。
謝っても遅い。
きっと、もう自分のことなど見たくもないだろう。
「……すまなかった」
誰もいない部屋で呟いた。
そのとき。
コンコン。
扉が叩かれた。
「誰だ?」
「私です」
使用人だった。
「ガレットン様。お客様がお見えです」
「客?」
「商人の方です」
「商人?」
「ドルチェ商会の使者だそうです」
ガレットンは眉をひそめた。
「俺に何の用だ?」
「それが……」
使用人は一枚の紙を差し出した。
「こちらを」
ガレットンが受け取る。
紙には短い言葉が書かれていた。
『あなたの人生を奪った者への復讐を、お手伝いしましょう』
「…………」
ガレットンはしばらく、その文字を見つめた。
そして。
紙を握り潰した。
「帰ってもらえ」
「よろしいのですか?」
「ああ」
ガレットンは立ち上がる。
「俺が自分の人生を壊したのは、マドレーヌ様じゃない」
「……」
「俺自身だ」
苦い言葉だった。
けれど。
今のガレットンにとって、それが現実だった。
「カヌレンを裏切った」
拳を握る。
「それだけだ」
使用人が静かに頭を下げる。
「承知しました」
扉が閉まる。
ガレットンは、もう一度窓の外を見る。
そして小さく呟いた。
「……もう、誰かのせいにはしない」
◇
「……何?」
ドルチェは報告を聞き、目を見開いた。
「ガレットンが誘いを断っただと?」
「はい」
「馬鹿な」
ドルチェは立ち上がった。
「奴は後継者の座を失ったのだぞ?」
「ですが、本人はマドレーヌ様を恨んでいないようです」
「そんなはずがあるか!」
「……」
「人間というものは、自分が不幸になれば必ず誰かを恨むものだ!」
ドルチェは苛立たしげに机を叩く。
しかし。
部下が一枚の報告書を差し出した。
「もう一つ、ご報告があります」
「何だ?」
「マドレーヌ様の警備ですが――」
ドルチェが顔を上げる。
「王国騎士団長グラッセが、ほぼ毎日のように屋敷を訪れているようです」
「……グラッセが?」
「はい」
「何のために?」
「警備の確認だそうです」
ドルチェは黙り込んだ。
やがて。
「……面倒なことになったな」
しかし。
その報告には、まだ続きがあった。
「それから」
「まだあるのか?」
「はい」
部下が困ったように笑う。
「グラッセ騎士団長は、警備の確認が終わった後も、なかなか帰らないそうです」
「……?」
「マドレーヌと一緒に、お茶を飲んでいるとか」
「…………」
ドルチェは絶句した。
なぜ騎士団長が。
大商人の屋敷で。
くつろいで茶など飲んでいるのだ。
「……意味が分からん」
ドルチェは頭を抱えた。
そして。
その頃、マドレーヌの屋敷では――。
「まあ、グラッセ様。今日もカヌレンの様子を見に来てくださったのね」
「…………はい」
「本当に優しい方ねえ」
「…………」
グラッセは、少しだけ遠い目をした。
違う。
そうではない。
だが。
「この紅茶、とても美味しいわ」
目の前で微笑むマドレーヌを見ると。
どうしても。
否定できなくなる。
「……ありがとうございます」
その様子を、廊下の陰からカヌレンが見ていた。
「…………やっぱり」
カヌレンは確信した。
「グラッセ様……」
あれは。
どう見ても。
――お祖母様に恋をしている。
けれど。
当の本人は。
「まあ、カヌレン。そんなところにいないで、こちらへいらっしゃい」
「はい」
マドレーヌが手招きする。
カヌレンは祖母の隣へ座った。
「グラッセ様が、あなたのことを心配してくださっているのよ」
「…………」
カヌレンは騎士団長を見る。
グラッセは。
カヌレンではなく。
その隣にいるマドレーヌを見ていた。
「……お祖母様」
「なぁに?」
「いえ」
カヌレンは小さく笑った。
「何でもありません」
――どうやら。
自分の婚約だけではなく。
お祖母様の恋の行方まで、見守ることになりそうだった。
【おまけ】
「まあ、グラッセ様。今日は非番なのに来てくださったの?」
「……警備の確認です」
「まあ。では、お茶でもどうぞ」
「……いただきます」
その夕方。
「お祖母様」
「なぁに?」
「グラッセ様、警備の確認に来ているのですよね?」
「ええ」
「では、なぜ三時間もお茶を飲んでいるのでしょう?
「…………」
「…………」
「お茶が美味しいからではないかしら?」




