第三話 お祖母様、私にぴったりの男性って誰ですか?
第三話 お祖母様、私にぴったりの男性って誰ですか?
春の舞踏会から、三日が経った。
カヌレンの婚約破棄騒動は、王都中を駆け巡っていた。
もっとも侯爵家の屋敷に引きこもっているカヌレンや祖母のマドリーヌにとっては、
すでに過去の話である。
「……平和ね」
窓辺に座りながら、カヌレンは紅茶を一口飲んだ。
目の前には、焼きたてのスコーン。
その隣には、苺のタルト。
そして中央には――。
「チョコレートケーキ!」
嬉しそうな声を上げたのは、マドレーヌだった。
「まあまあ。今日のケーキも素晴らしいわ」
「お祖母様……」
「どうしたの?」
「三日前の騒動が嘘みたいですね」
「そう?」
「はい」
カヌレンは苦笑する。
「私、婚約破棄されたばかりなのですけれど」
「そうだったわね」
「忘れていたでしょう?」
「ケーキが美味しいから」
「……もう」
思わず笑ってしまう。
マドレーヌは、そんな孫娘を眺めながら、幸せそうに微笑んだ。
「でも、カヌレン」
「はい?」
「あなたは、これからどうしたいの?」
「これから……」
カヌレンは少しだけ考えた。
婚約者だったガレットンとは、もう終わった。
侯爵家の後継者から外されたという話も聞いている。
本人は王都を離れ、領地の別邸へ送られることになったらしい。
「そうですね……」
窓の外を見る。
桜の花が風に揺れている。
「しばらく、自分のために生きてみたいです」
「まあ」
マドレーヌの目が嬉しそうに細められた。
「素敵じゃない」
「今までは、婚約者のためにと考えてばかりでしたから」
勉強も。
礼儀作法も。
社交も。
侯爵夫人になるために必要だと言われれば、何でも頑張った。
けれど。
それは本当に、自分が望んだ人生だったのだろうか。
「これからは、好きなことをしてみたいです」
「たとえばどんなこと?」
「……旅行、とか」
「いいわね」
「それから、いろいろな街を見てみたいです」
「もっといいわ」
マドレーヌは頷く。
「では、私の商会の船を一隻使いましょう」
「え?」
「大陸を一周してきなさい」
「……ええっ!?」
カヌレンは思わず立ち上がった。
「い、一周ですか!?」
「ええ」
「そんな簡単に……」
「私の商会の船ですもの」
「そういう問題ではありません!」
マドレーヌは楽しそうに笑った。
「あなたはまだ若いのよ。世界は広いわ。王都だけを見て人生を決める必要なんてないでしょう?」
「……」
「あなたの両親も外交官として、外国を回っているのだから、
あなたも同じことをするのも、いいのかしら?」
その言葉が、胸に染みた。
ずっと。
自分の世界は、侯爵家と婚約者だけだと思っていた。
けれど。
その外側には、もっと広い世界がある。
「……行ってみたいです」
「でしょう?」
マドレーヌは満足そうに頷いた。
「では、旅行の準備を――」
「待ってください」
「なぁに?」
「その前に」
カヌレンは少しだけ躊躇した。
「……恋愛についても、考えた方がいいのでしょうか?」
ぴたり。
マドレーヌの手が止まった。
「まあ、恋話というのかしら」
次の瞬間。
紫色の瞳が、きらりと輝いた。
「恋愛!」
「お祖母様?」
「そうよ。恋愛ね」
「そんなに嬉しそうにしなくても……」
「だって、恋の話はいつもワクワクするものよ」
「……」
カヌレンは視線を逸らした。
「私、恋愛はよく分からなくて」
「あら」
「ガレットンのことも……」
少し考える。
「好きだったのかどうか、今となっては分かりません」
「そんなものよ」
マドレーヌはあっさりと言った。
「愛されることと、我慢することは違うもの」
「……」
「あなたを大切にしてくれる人を選びなさい」
その言葉に、カヌレンは顔を上げた。
「大切に……?」
「ええ」
マドレーヌはケーキを一口食べる。
「あなたの話を聞いてくれる人」
「はい」
「あなたが笑うと嬉しそうにする人」
「……」
「困ったときには、何も言わずに助けてくれる人」
「……そんな方、いるでしょうか?」
「いるわよ」
「え?」
マドレーヌは、にっこり笑った。
「この大陸に、あなたに紹介できる男性なら、それこそ山ほどいるわ」
「山ほど……?」
「皇族にもいるし、王族にもいるし、大貴族にもいるわね」
「お祖母様」
「なぁに?」
「私は商品ではありません」
「もちろん分かっているわ」
「でしたら、そんなに簡単に……」
「だからこそよ」
マドレーヌは真面目な顔になった。
「もし願うのなら、あなたを大切にしてくれる男性を、私が見極めてあげるわ」
「……」
「安心なさい」
そして。
満面の笑み。
「皇太子も王太子も私の孫なのよ?」
「はい」
「良い男の一人くらい、いくらでも紹介できるわ」
「そういう問題ではありません!」
カヌレンは真っ赤になった。
そのときだった。
コンコン。
部屋の扉が叩かれる。
「失礼いたします」
侍女が入ってきた。
「お客様がお見えになっています」
「誰かしら?」
「王宮より、使者の方が」
「あら?」
マドレーヌが首を傾げる。
「一体、誰かしら?」
「あの、それが……」
侍女は少しだけ困った顔をした。
「第二王子ルミアンド=フィルモル殿下です」
「…………」
カヌレンの動きが止まった。
「ルミアンド殿下?」
「はい」
マドレーヌは楽しそうに笑った。
「まあ」
「お祖母様?」
「ちょうどいいわ」
「何がですか?」
「恋愛の話をしていたところだもの」
「まさか」
嫌な予感がする。
「お祖母様、変なことを言わないでくださいね?」
「もちろん」
マドレーヌはにこにこしている。
その顔を見て。
カヌレンは確信した。
――絶対に何か企んでいる。
「お通しして」
「はい」
侍女が頭を下げ、扉を開く。
そして。
一人の青年が入ってきた。
黒に近い濃紺の髪。
涼やかな青い瞳。
すらりとした長身。
王族らしい気品をまといながらも、その表情にはどこか柔らかな雰囲気があった。
「突然の訪問を許してほしい」
青年はカヌレンを見る。
その瞬間。
彼の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
けれど。
カヌレンは気づかなかった。
「ルミアンド殿下。お久しぶりでございます」
慌てて立ち上がり、礼をする。
「そんなに畏まらなくていい」
ルミアンドは微笑んだ。
「カヌレン嬢」
「はい」
「顔色が少し悪い」
「え?」
「婚約破棄の件で、眠れていないのではないか?」
「……」
思わず目を瞬く。
「どうして、それを?」
「王都中で噂になっている」
「そう、ですか……」
「だが」
ルミアンドの声が、少しだけ低くなる。
「君が悪いとは、私は思っていない」
「……」
カヌレンは驚いた。
婚約破棄の騒動以来。
ほとんどの人は、マドレーヌの孫だからという理由で彼女を持ち上げた。
けれど。
この人は違う。
カヌレン自身を見ている。
「ありがとうございます」
自然と笑みがこぼれた。
すると。
ルミアンドは、一瞬だけ言葉を失った。
「……」
「殿下?」
「いや」
ルミアンドは視線を逸らした。
「その……」
「はい?」
「笑った方が、ずっと綺麗だと思っただけだ」
「…………え?」
カヌレンの頬が、一気に熱くなる。
「な、何を……」
その隣で。
「まあまあ」
マドレーヌが楽しそうに紅茶を飲んでいた。
「お祖母様!」
「何かしら?」
「今の、聞いていましたよね!?」
「もちろん」
マドレーヌはにっこり笑った。
「とてもいい男性じゃない」
「だから、そういう話では……!」
カヌレンが慌てる。
ルミアンドはそんな彼女を見て、ふっと笑った。
そして。
テーブルの上に置かれていた小さな包みを取り上げる。
「そうだ」
「?」
「これを」
「私に、ですか?」
「ああ」
包みを開く。
中には、美しい銀細工の髪飾りが入っていた。
中央には、小さな青い宝石。
「……綺麗」
「婚約破棄の騒動で、君が何も悪くないのに嫌な思いをしたと聞いた」
「はい……」
「だから、少しでも気分が晴れればと思って」
「……」
カヌレンは髪飾りを見つめた。
高価だから嬉しいのではない。
自分のために選んでくれた。
そのことが、なぜか嬉しかった。
「ありがとうございます」
「気に入ってくれたならよかった」
「はい」
カヌレンが微笑む。
ルミアンドもまた、穏やかに笑った。
その二人を見ながら。
マドレーヌは、ひっそりと目を細める。
――なるほど。
これは。
かなり面白いことになりそうだ。
だが、カヌレンは知らない。
目の前にいるこの青年が。
ただの「優しい第二王子」ではないことを。
そして。
彼が今日ここへ来た理由は――。
婚約破棄の見舞いだけではなかった。
「カヌレン嬢」
「はい?」
ルミアンドは、少しだけ真剣な顔になる。
「実は、君に頼みたいことがある」
「私に?」
「ああ」
そして彼は、静かに告げた。
「私の婚約者になってほしい」
「…………え?」
カヌレンの思考が、完全に止まった。
その瞬間。
隣から。
「まあ! 熱烈だわ!」
マドレーヌの嬉しそうな声が響いた。
「お祖母様!」
――カヌレンの新しい人生は。
どうやら、思っていたよりずっと騒がしいものになりそうだった。




