第十六話 銀髪の魔女、商会を完膚なきまでに叩き潰す
第十六話 銀髪の魔女、商会を完膚なきまでに叩き潰す
その頃。
王都の市場では、次々と小麦が運び込まれていた。
「グラン商会から小麦が入ったぞ!」
「まだあるのか?」
「倉庫に大量にあるらしい!」
「値段は?」
「一・二倍程度だ!」
「一・二倍?」
「今の相場より安いぞ!」
市場が騒然となる。
小麦を買い占めていた商人たちは、顔を見合わせた。
「どういうことだ?」
「グラン商会は、なぜこの価格で売れる?」
「こんなに大量の小麦を……?」
そして。
グレゴールも、その報告を聞いていた。
「馬鹿な……」
机の上の帳簿を握りしめる。
「一・二倍で売っただと?」
「はい」
「一・九倍まで上がっていたんだぞ?」
「ですが、グラン商会は一・二倍程度で大量に放出しています」
「なぜだ……」
グレゴールには理解できなかった。
普通なら、もっと高くなるまで待つ。
利益を最大化する。
それが商人だ。
なのに。
マドレーヌは違った。
「どうして……」
その答えは、翌日の朝に分かった。
◇
「――今年の小麦は、不作ではありません」
そんな情報が、王都中を駆け巡った。
「……何?」
グレゴールは新聞を握りしめた。
「今年の収穫量は、例年並みになる見込みです」
「そんな……」
手が震える。
「では……」
部下が青ざめた顔で呟く。
「不作という噂は……」
「……」
グレゴールは答えられなかった。
誰が流した噂なのか。
そんなことを今さら考えている場合ではない。
問題は――。
市場の人々が、その情報を信じ始めたことだった。
「例年並みなら、今の値段は高すぎる」
「もっと下がるんじゃないか?」
「今のうちに売ったほうがいい」
商人たちの心理が、一気に反転した。
一・二倍だった価格は――。
一・〇倍。
さらに。
〇・九倍。
〇・八倍。
「売れ!」
「今のうちに処分しろ!」
「これ以上下がったら大損だ!」
市場に大量の小麦が流れ込む。
価格は、坂道を転がるように落ちていった。
「……そんな」
グレゴールは呆然と市場を眺めた。
「一・七倍だった小麦が……」
「〇・八倍です」
「……」
「さらに下がっています」
誰かが呟いた。
「このままでは……」
グレゴールの顔が青ざめる。
「我々も売らなければ……」
だが。
「売れば、大損です」
「売らなければ、もっと損をする!」
「ですが――」
「売れ!」
グレゴールが怒鳴った。
「全部売れ!」
カルトシュガー商会も、小麦を市場へ放出した。
しかし。
誰も買わなかった。
価格はさらに下がった。
〇・七倍。
〇・六倍。
そして――。
「……〇・六倍です」
部下の声が震える。
グレゴールは椅子に座ったまま、動かなかった。
「我々は……」
大量に買った。
高い値段で。
もっと高くなると信じて。
そして。
「……大損だ」
帳簿をめくる。
そこに並んでいる数字は、目を背けたくなるほどの損失だった。
「ドルチェ様から預かった資金が……」
グレゴールの唇が震える。
「ほとんど消える……」
◇
それから数日。
小麦の価格は〇・五倍まで落ち込んだ。
農家たちは困っていた。
「こんな値段では、来年の種を買えない」
「肥料も買えないぞ」
「どうすればいいんだ……」
今度は、農家が苦しみ始めた。
その様子を。
一人の女性が静かに見つめていた。
「……そろそろね」
マドレーヌだった。
隣にはカヌレンがいる。
「お祖母様?」
「買いましょう」
「小麦をですか?」
「ええ」
マドレーヌは頷いた。
「少しずつよ」
グラン商会が、小麦を買い始めた。
一度に大量には買わない。
毎日。
少しずつ。
農家から。
商人から。
余っている小麦を買い集めていく。
「なぜ、今買うんですか?」
カヌレンが尋ねた。
マドレーヌは優しく答えた。
「価格が下がりすぎているからよ」
「でも、安いほうがお客様には嬉しいのでは?」
「もちろん、安いことは悪いことではないわ」
マドレーヌは市場を見る。
「でもね」
「はい」
「安くなりすぎれば、今度は農家が苦しくなるの」
カヌレンは黙って聞いていた。
「農家が作ってくれなければ、来年の小麦がなくなるでしょう?」
「……はい」
「だから、商人は目先の利益だけを見てはいけないの」
マドレーヌは微笑んだ。
「高くなりすぎれば、食べる人々が苦しむ」
「……」
「安くなりすぎれば、作る人が苦しむ」
「……はい」
「だから私は――」
マドレーヌは静かに言った。
「市場が壊れるほどの価格変動を、見逃すつもりはないのよ」
◇
グラン商会は、少しずつ小麦を買い続けた。
〇・六倍。
〇・七倍。
〇・八倍。
〇・九倍。
そして。
「一・〇倍まで戻りました」
ナッツが報告する。
マドレーヌは頷いた。
「そう」
「これ以上、買いますか?」
「いいえ」
「では……」
「ここまでよ」
マドレーヌは帳簿を閉じた。
「市場が落ち着いたわ」
「はい」
「これで農家も、最低限は商売を続けられるでしょう」
ナッツは感心したようにマドリーヌを見る。
「マドレーヌ様は……」
「何かしら?」
「本当に、相場だけを見ていらっしゃらないのですね」
「当然でしょう?」
マドレーヌは笑った。
「商売は、人と人との間にあるものですもの」
◇
一方。
カルトシュガー商会。
その会議室には、以前のような笑い声はなかった。
誰も喋らない。
机の上には、損失を記した帳簿。
グレゴールは、それを見つめていた。
「……全部、失った」
「はい」
「これだけの損失を……」
「はい」
「ドルチェ様には……」
部下は答えなかった。
言わなくても分かっている。
この失敗が、どれほど大きな意味を持つのか。
グレゴールは拳を握った。
「なぜだ……」
その声は、かすれていた。
「なぜ、あの女は……」
頭の中に、マドレーヌの姿が浮かぶ。
自分たちが買い占めたとき。
彼女は一・二倍で売った。
自分たちが二倍を目指している間に。
彼女は利益を追わず、市場へ小麦を流した。
そして。
価格が下がりすぎると、今度は買い始めた。
「……最初から分かっていたのか?」
誰も答えない。
「我々が不作の噂を流すことも」
「……」
「価格が上がることも」
「……」
「そして、いつか下がることも……」
グレゴールの声が震える。
「全部、分かっていたのか……?」
そのとき。
一人の部下が、恐る恐る口を開いた。
「おそらく……」
「何だ?」
「マドレーヌは、最初から二倍で売るつもりはなかったのではないでしょうか」
「……」
「一・二倍程度でも十分に利益を出し、まず市場に商品を流した」
「……」
「そして、我々が買い占めを続けるのを……」
部下が言葉を失う。
「待っていた?」
グレゴールが呟いた。
「……はい」
その瞬間。
グレゴールの背筋に、冷たいものが走った。
「つまり……」
自分たちは、マドレーヌを追い詰めていると思っていた。
だが。
「追い詰められていたのは……我々のほうだったのか」
◇
さらに数日後。
ドルチェ本店。
その一室で、カルトシュガー商会から送られてきた報告書を見ている男がいた。
「……大損だと?」
「申し訳ございません」
「原因は?」
「グラン商会です」
「グラン商会……?」
「会頭のマドリーヌが動きました」
「銀髪の魔女マドレーヌか……」
その名を聞いた瞬間。
男の表情が変わった。
「そうか」
しばらく沈黙したあと。
「よりによって、あの女が出てきたか」
◇
その頃。
王都の小さな広場では。
一人の農家の女性が、グラン商会の担当者に頭を下げていた。
「ありがとうございます」
「え?」
「この価格なら、来年も畑を続けられます」
担当者は少し驚いた。
その光景を、少し離れた場所からマドレーヌが見ていた。
カヌレンも隣に立っている。
「お祖母様」
「何かしら?」
「お祖母様は……」
カヌレンは少し考えてから尋ねた。
「本当に、悪徳商会を倒したかっただけなんですか?」
マドレーヌは微笑んだ。
「いいえ」
「では?」
「私はね」
マドレーヌは市場を見つめた。
「人々が困っているのを利用して、儲ける商売が嫌いなの」
「……」
「商売は、人々を幸せにするためにあると思うの?」
カヌレンは頷く。
「美味しいケーキを作れば、お客様が笑顔になるように」
「はい」
「農家が作った小麦を、必要としている人へ届ければ、笑顔が増えると思うかしら」
「そうなのですね」
マドレーヌは優しく笑った。
「私は、人々が喜ぶ商売が好きなの」
その言葉を聞いたカヌレンは、胸が温かくなった。
「やっぱり……」
「何かしら?」
「お祖母様は、格好いいです」
「まあ」
マドレーヌは楽しそうに笑った。
「それなら、もっと格好いいところを見せないといけないわね」
「え?」
「次は砂糖かしら?」
「……!」
カヌレンの目が丸くなる。
マドレーヌは、楽しそうに王都の先を見つめた。
「カルトシュガー商会さん」
その声には、怒りよりも余裕があった。
「商売は、まだまだこれからよ」
◇
そして。
カルトシュガー商会の大損失を皮切りに。
王都では、ある噂が広まり始める。
――グラン商会の会頭、マドレーヌが動いた。
――あの伝説の銀髪の魔女が、本気になった。
その噂を聞いた商人たちは。
誰もが同じ言葉を口にした。
「……カルトシュガー商会、相手が悪すぎたな」
こうして。
カルトシュガー商会の最初の戦いは――。
完膚なきまでに敗北した。
けれど。
マドレーヌは、まだ知らない。
この一件によって。
大商会ドルチェが、ついに自ら動き始めることを。
甘いケーキから始まった小さな騒動は。
やがて――。
大陸最大級の商会同士が激突する、巨大な商売戦争へと変わっていくのだった。




