第十五話 グレゴール視点 カルトシュガー商会、伝説の銀髪の魔女と戦う
第十五話 グレゴール視点 カルトシュガー商会、伝説の銀髪の魔女と戦う
――カルトシュガー商会。
その朝。
王都でも有数の商会、その一室では、男たちの笑い声が響いていた。
「順調だな」
大きな机の中央。
何冊もの帳簿と、買い付けの証文を前にして、カルトシュガー商会の商会長代理――グレゴールは満足そうに笑っていた。
「小麦の価格は、昨日よりさらに上がっています」
部下が報告する。
「現在、一・二倍です」
「砂糖は?」
「こちらも上昇しています」
「そうか」
グレゴールは頷いた。
「予定通りだな」
机の上には、大量の小麦と砂糖を買い付けた証文が並んでいる。
これまでに使った金額は、決して小さくない。
むしろ。
このまま価格が下がれば、商会そのものが危うくなるほどの金額だった。
だが。
グレゴールは少しも不安そうではなかった。
「二倍になれば、売る」
その一言に、部下たちも笑った。
「はい」
「二倍ですべて売り抜ける」
「それが今回の計画です」
今年の小麦は、不作になる。
――そういう噂を、彼らは王都中に流していた。
実際の収穫量など、まだ誰にも分からない。
だが。
人は、分からないものを恐れる。
「今年は小麦が取れないらしい」
「冬には小麦が不足する」
「パンの値段も上がるぞ」
「今のうちに買っておいたほうがいい」
そんな言葉を、少しずつ。
少しずつ。
商人たちの耳へ流していった。
すると。
最初は半信半疑だった商人たちも、次第に小麦を買い始めた。
小麦が売れる。
市場から小麦が減る。
すると価格が上がる。
価格が上がれば――。
「もっと上がるかもしれない」
そう考える者が増える。
そして。
「今のうちに買っておこう」
さらに買う。
価格が上がる。
また買う。
まるで坂道を転がるように、小麦の価格は上昇していった。
「一・四倍」
部下が報告する。
「一・五倍」
別の部下が続ける。
グレゴールは、椅子に深く腰掛けたまま、満足そうに笑っていた。
「まだだ」
「はい」
「まだ売るな」
「承知しております」
「二倍だ」
グレゴールの目が鋭く光る。
「二倍になったところで、一気に売る」
そのとき。
「グレゴール様!」
若い商人が慌てて駆け込んできた。
「どうした?」
「小麦の価格が……」
「また上がったか?」
「はい!」
男は興奮したように頷く。
「一・七倍です!」
「……一・七倍」
グレゴールの口元が、ゆっくりと上がった。
「あと少しだ」
「はい!」
「二倍になれば、今回の利益は?」
部下が帳簿を確認する。
「かなりの額になります」
「かなり?」
グレゴールは笑った。
「そんな言葉では足りないだろう」
小麦だけではない。
砂糖も買い集めている。
さらに、他の商会にも小麦を買わせている。
つまり。
市場全体が、自分たちの思惑通りに動いているのだ。
「ドルチェ様も、きっとお喜びになるでしょう」
部下が言った。
その名前が出た瞬間。
会議室の空気が少しだけ変わった。
――ドルチェ。
この大陸で最大級の規模を誇る大商会。
カルトシュガー商会は、その傘下にある。
今回の計画も、ドルチェから下された指示が始まりだった。
「今年の食料価格の高騰を利用する」
それが、ドルチェの方針だった。
食料は、人が生きるために必ず必要になる。
だからこそ。
少し不足するだけで価格は動く。
そして。
価格が上がれば、人々は不安になる。
不安になれば、さらに買う。
その心理を利用して、利益を得る。
「我々は、ドルチェ様の期待に応える」
グレゴールは誇らしげに言った。
「これだけの小麦を集めた」
「はい」
「二倍になれば、すべて売る」
「はい」
「そして――」
グレゴールは笑った。
「大きな利益を手にする」
男たちの間から、再び笑い声が上がった。
誰も疑っていなかった。
この計画は成功する。
いや。
もう、ほとんど成功している。
あとは二倍になるのを待つだけだ。
◇
それから数日。
小麦の価格は、さらに上がった。
一・七倍から一・八倍。
そして――。
「グレゴール様!」
部下が勢いよく扉を開けた。
「何だ?」
「王都の各地から報告が入っています!」
「価格は?」
「上がっています!」
「どれくらいだ?」
「一・九倍になりました!」
「そうか!」
グレゴールは立ち上がった。
「もうすぐだ!」
あと少し。
本当にあと少しだ。
市場では、商人たちが小麦を求めて走り回っている。
「もっと高くなるぞ!」
「今のうちに買っておけ!」
「二倍になる前に買わないと損だ!」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
グレゴールは窓の外を見ながら、笑った。
「愚かなものだ」
「はい」
「自分たちが値上げを支えていることにも気づいていない」
彼らは知らない。
市場に出回る小麦の量を減らしているのが、カルトシュガー商会だということを。
そして。
その不安を煽っているのも、彼らだということを。
「二倍になったら……」
グレゴールは呟く。
「売る」
その瞬間。
「――大変です!」
またしても扉が開いた。
「何だ!」
グレゴールが苛立ったように振り返る。
「小麦が……!」
「だから、どうした!」
「大量の小麦が、市場へ流れ始めました!」
「……何?」
グレゴールの眉が動く。
「どこの商会だ?」
「それが……」
部下の顔が、見る見るうちに青ざめていく。
「尋常ではない量なんです」
「どこの商会だと聞いている!」
「……グラン商会です」
「……」
会議室から、笑い声が消えた。
「グラン……商会?」
「はい」
「なぜ、グラン商会が小麦を……」
「それが分かりません」
グレゴールは窓へ駆け寄った。
眼下の大通り。
そこを、何台もの荷馬車が走っている。
荷台には、大量の小麦袋。
その側面には。
見慣れた紋章が刻まれていた。
――グラン商会。
「馬鹿な……」
グレゴールの顔から、血の気が引いていく。
「この時期に、あれほどの量を……?」
「はい」
「価格は?」
「それが……」
部下が震える声で答えた。
「一・二倍程度です」
「……何?」
「一・二倍程度の価格で、次々と市場へ流しています」
「馬鹿な!」
グレゴールが机を叩いた。
「今は一・九倍だぞ!」
「はい……」
「なぜ一・二倍で売る!」
「分かりません……」
グレゴールは唇を噛んだ。
商人なら。
普通なら。
もっと高くなるまで待つ。
一・九倍を超え、二倍へ。
そこまで待ってから売る。
それが常識だ。
なのに。
グラン商会は、あえて安い価格で小麦を市場へ流している。
「……何を考えている?」
誰も答えられない。
そのとき。
別の部下が、慌てて駆け込んできた。
「グレゴール様!」
「今度は何だ!」
「グラン商会について、情報が入りました!」
「会頭?」
「はい」
部下は、息を整えながら口を開いた。
「今回の小麦の買い付けと販売を指示したのは……」
そこで。
なぜか男は言葉を詰まらせた。
「早く言え!」
「……マドレーヌです」
「……」
グレゴールの動きが止まった。
「今……何と言った?」
「グラン商会の会頭――」
部下は震える声で告げる。
「あのマドレーヌです」
「…………」
長い沈黙。
やがて。
グレゴールの顔から、完全に笑みが消えた。
「まさか……」
その名前は。
王都の商人なら、一度は聞いたことがある。
数々の商会を相手に勝ち続け。
大商会同士の争いを何度も収め。
市場の流れを誰より早く読み。
かつて、数々の商人たちを震え上がらせた女性。
そして。
今はグラン商会の会頭を務める――。
「……銀髪の魔女」
グレゴールの唇から、その異名が漏れた。
「あの魔女マドレーヌが……動いたのか?」
「はい」
部下が頷く。
その瞬間。
グレゴールは、初めて気づいた。
自分たちが二倍になるのを待っていた、その間。
誰かが。
ずっと市場の動きを見ていた。
自分たちよりも。
ずっと冷静に。
ずっと遠くまで。
「……まさか」
グレゴールは窓の外を見る。
市場へ次々と運び込まれる小麦。
その光景が。
なぜか、巨大な罠のように見えた。
「マドレーヌ……ぎ、銀髪の魔女め……」
呟いた声は。
先ほどまでの自信に満ちたものではなかった。
――恐れ。
ほんのわずかに。
その声には、確かな恐れが混じっていた。
けれど。
このときのグレゴールは、まだ知らなかった。
自分たちが「二倍になる」と信じて買い集めた小麦が。
この先。
どれほど恐ろしい勢いで価値を失っていくのかを。
そして。
自分たちが勝利を確信していたこの瞬間こそが――。
敗北の始まりだったことを。
――次回。
銀髪の魔女、動く。




