第28話 僕の人生は僕が生きる
あの騒がしい夜が終わり、静寂が戻っていた。
スターは少し離れた場所で、ひとりアリアナを見つめていた。あの混乱の余韻が、まだ空気に残っている気がした。
「……オレはな、君がいなくなってから、随分と変わったんだ」
スターはぽつりと呟くように口を開いた。その声は穏やかだったが、どこか五年という歳月の重みを滲ませていた。
「君が助けてくれたあの日から……オレは、人とどう接すればいいのか、友達だけじゃなく、知らない人にもどう向き合えばいいのか……学んできたんだ。簡単じゃなかったけど、諦めずに前に進んだ」
「今じゃ、街の人たちも……オレを、ちゃんと認めてくれてる」
アリアナは、驚きと少しの切なさを滲ませた瞳で、スターをじっと見つめていた。
「仲間たちがずっと傍にいてくれた。生き方とか、感情とか……裏切りとか、色んなことを教えてくれた」
スターは一瞬だけ目を伏せた。その顔には、かすかな痛みがにじんでいた。
「……全部が順風満帆だったわけじゃない。でも、オレは止まらずに歩き続けた」
アリアナは、小さく頷いた。声が震えていた。
「……良かった。本当に、良かった……」
けれど彼女は拳を握りしめ、俯いた。
「でも、スター……私、もうここにはいられない。両親は私を娘なんて思ってない。ただの……商売の道具扱いよ。次は結婚だって、勝手に決められて……」
また、涙が零れ落ちた。
「……私、君と一緒に逃げたい」
その言葉に、スターの心は痛く締め付けられた。
「……ダメだ」
彼は静かに、だがはっきりと言った。
「……え?」
アリアナは目を瞬かせる。
仲間たちが不安そうに視線を交わした。
「スター……それは……」エリックが言いかけたが、スターは首を振る。
「ダメだ」
彼はアリアナを見つめ、優しさと決意を宿した瞳で言った。
「君を……逃がすことはできない」
静かに、でもどこか遠くを見つめるように彼は続けた。
「オレには親がいなかった。……だから、家族ってものがどんなものか、知らない。でも、君にはいるじゃないか。どんなに酷くても、君の両親は君の親なんだ」
アリアナは唇を噛んだ。
「……でも、私が望むような愛情なんて……ない。あの人たちは、お金と権力と……支配しか頭にないのよ」
スターはそっと、彼女の肩に手を置く。
「それでも、もう一度だけ……信じてみてほしい」
涙が零れるアリアナは、悲痛に問いかけた。
「どうしてそんなこと言うの……私が傷ついてもいいって思ってるの?」
「思ってない……だからこそだ」
スターの声は小さく震えていた。
「だから、君にもう一度だけ向き合ってほしいんだ」
仲間たちも迷っていた。カイドはぼそりと呟く。
「本当にそれでいいのか……?」
けれど、スターは揺れなかった。
「今ここで逃げたら、その痛みは一生背負うことになる。……オレは知ってるから。そんな未来、君には歩んでほしくない」
アリアナは顔を覆い、声を上げて泣いた。
傍にいた父親は、ただ呆然とその様子を見つめていた。まさかスターが、逃げろと言うどころか、家に戻れと言うとは思いもしなかったのだろう。
スターは一歩、彼女から距離を取る。
「……じゃあ、オレは行くよ」
彼はそう言って、最後に優しく微笑んだ。
「次に会うとき、君が君らしくいられますように」
アリアナは何か言いたかった。けれど、言葉は喉で詰まって出なかった。
スターは振り返らず、仲間と共に去っていった。
残された父親は、呆然とその背を見送るしかなかった。
そしてアリアナは……ただ涙を流していた。
◆ ◆ ◆
帰り道。誰もが黙ったまま、バス停へ向かう。
重い空気が漂うなか、ようやくルナがぽつりと尋ねた。
「スター……これで、本当に良かったの?」
彼は視線を落とし、ぼんやりと手を握り締めたままだった。
「……これでいい」
エリックがメガネを押し上げる。
「……彼女は苦しんでる。それでも、君は連れて行かない方が良かったと?」
スターは首を振った。
「逃げたら、ほんの少し自由になった気がしても……結局、何も解決しない。過去から逃げても、傷は消えないんだ」
ヘンリーは腕を組み、唸るように呟いた。
「……でも、親が変わらなかったら?」
スターは顔を上げ、静かに答えた。
「それは彼女の戦いだ。オレじゃない」
「……君は、強くなったな」と、メイが小さく笑った。「でも……背負いすぎだよ、スター」
スターは答えなかった。
バスが到着し、全員が無言のまま乗り込む。流れる街の灯りに、誰も口を開かないまま時間が過ぎていった。
けれど、スターの心は、まだアリアナの隣にいた。彼女の『一緒に逃げたい』という悲痛な声が、耳から離れない。
逃げるのではなく、向き合う。
それがオレが選んだ答えで。オレが、自分に言い聞かせた答えだった。
◆ ◆ ◆
帰宅し、リビングに座る彼ら。ルナがぽつぽつとギターを爪弾く音が、静けさを満たしていた。
カイドが壁に凭れ、ふっと笑った。
「……案外、火をつけたかもな」
スターは瞬きをした。
「火?」
「言っただろ。『逃げるな』『戦え』……そう言われたら、人は案外、戦いたくなるもんさ」
エリックが頷いた。
「きっと、君の言葉が必要だったんだ」
スターは答えなかったが、ほんの少しだけ、胸の奥に灯るものを感じた。
彼女が、いつか本当に戦える日が来ることを。
彼女が、いつか本当に自分を取り戻せることを。
◆ ◆ ◆
その頃、アリアナは一人、部屋で膝を抱えていた。
スターの言葉が何度も、胸の奥で反響していた。
『逃げるな。向き合え』
涙は止まらなかった。悲しいだけじゃない。悔しさも、怒りも、全部が心を押し潰してくる。
けれど扉の向こうで、父が逡巡している気配がした。
やがて、そっとノックされ、返事も待たずに扉が開いた。
彼女は顔を上げなかった。
「……あの子、君を……本当に、大事にしてるんだな」
父は、珍しく低く、静かな声を出した。
アリアナは答えなかった。
「昔のことを、彼に聞かされた。……君が、あの子を支えたと」
彼女は膝を握り締めた。
「でも、あなたは信じなかった。あの時、私はただ……孤児と遊んでいるとしか思ってなかったでしょう」
父は長い沈黙の後、息を吐いた。
「……守りたかった。君を……まともな未来から遠ざけたくなかったんだ」
「まとも?」アリアナは震える声で笑った。
「あの狂った婚約者と結婚させて、それがまとも? 聞いてたでしょう。私は、ただの駒だった」
父は何も言い返さなかった。
アリアナは涙を拭った。
「あなたは、私の幸せなんて、一度も考えたことなかった」
ようやく、父は小さく呟いた。
「……彼は逃げろと言わなかった」
アリアナは顔を上げた。
「彼は君を連れて行こうとしなかった……本当に、君の幸せを願っているんだろう」
アリアナの胸が痛んだ。
「……あの子は、私が何かを持っているからじゃない。私自身を、大事に思ってくれてる」
父は黙り込み、その肩がほんの少しだけ落ちた。
そして、母が静かに入ってきた。
「アリアナ……私たち……」
言葉は続かず、父と母は沈黙の中で立ち尽くした。
◆ ◆ ◆
時計の音がやけに大きく響く中。
彼女は深く息を吸い、顔を上げた。
「私は……逃げない。でも、もうあなたたちに、人生を決めさせない」
父が僅かに眉を動かした。
母は、小さく頷いた。
「私たちは、君の幸せを……」
「なら、私の声を聞いて」
アリアナはまっすぐに言った。
「結婚も、未来も……全部、自分で決めたい」
父は口を開きかけ、しかし何も言わず……ただ、頷いた。
「……あの男との婚約は、考え直そう」
それは完璧な答えではない。それでも、一歩だった。
「……それでいい」
母が、そっとアリアナの手を取った。
「……やり直そう。私たちも」
アリアナは手を引きもせず、握り返すこともなかった。
そして心のどこかで、あの少年のことを思っていた。
――スター。
彼は今、どうしているだろう。
彼女は知っていた。これが、ふたりの物語の終わりじゃないことを。




