第25話 閉ざされた扉と開かれた傷
アリアナはソファに座ったまま、微かに震える指先を膝の上でぎゅっと握り締めていた。
――カチリ、と鳴った扉の鍵の音が、何度も脳内で反響していた。
けれど、それ以上に耳に残って離れないのは――
彼の声だった。
スター。
かつて、死にかけていた少年を抱きしめた日のことを思い出す。
あの日、怯えきったその目に、自分はたったひとつの“光”として映っていたはずだった。
……その少年を、自分は、今――突き放した。
心臓が痛いほど胸を打つ。けれど、顔には何ひとつ表れない。ただ、冷たく、無表情を装う。
奥歯を食いしばり、胸の奥で荒れ狂う嵐を、必死に封じ込めていた。
その時――静寂を破る声が、部屋に落ちた。
「……お嬢様、今のお方は?」
古くからこの家に仕える侍女が、そっと問うた。
穏やかな声音。しかし、その瞳には何かすべてを察したような色があった。
アリアナの肩がわずかにこわばる。
「……ただの、他人よ。」
「他人……? それにしては、顔色が悪うございますね。」
返事をしようとした唇が、わずかに開く――だが、言葉は出なかった。
立ち上がる。カツ、カツ、と硬い床を踏みしめ、窓辺まで歩む。
「……関係ないわ。もう、忘れて。」
言葉は鋭く、空気を裂いた。
けれど侍女は、ただ静かに彼女を見つめていた。
「人は、他人を遠ざけることはできます。ですが……自分の心には、嘘はつけません。」
アリアナの拳が、震えた。
「……やめて。」
「……お嬢様が、この五年、どれほど苦しんでいたか。私には分かっております。」
……胸が、ずきりと痛んだ。
背を向けたまま、息が微かに詰まる。
「私が気づかぬとでも?」
「……笑わなくなったこと。どこか遠いところばかり見ていること。」
アリアナは目を固く閉じ、滲む痛みを必死に押し殺す。
「……あの方を、一度は救われましたね。今、目の前にいらした。なのに――閉ざされた。」
沈黙。
「……仕方、なかったのよ。」
絞り出すように告げたその声は、どこか壊れていた。
「どうして……?」
肩が、震えた。
「……また会ってしまったら……今度こそ、あの人を、傷つける。」
その言葉は、あまりにも脆く、張り詰めていた。
侍女は、そっと首を横に振った。
「……怖いのでしょう。傷つけられることが。」
アリアナの目が――驚愕に、僅かに見開かれた。
けれど振り返らない。
涙が、滲み始めた。けれど、決して零さぬよう、必死に耐えた。
「……あの人は……私なんかいない方が、幸せなの。」
老いた侍女は、そっと一歩下がった。
この娘は、もはやかつての温かく、無邪気だった少女ではない。
冷たく縛られた檻の中――そう見えた。
……そして、あの少年もまた、今、彼女の冷たさに傷ついているのだと。
侍女は何も言わず、その場を静かに去っていった。
残されたアリアナは、ただ窓の外を見つめていた。
――ほんの数分前まで、そこにスターはいた。
手を窓辺に添えながら、押し殺してきた記憶が溢れ出す。
あの日――五年前。
彼を置いて、自分は家に戻った。
……救いを求めて。
けれど、待っていたのは冷たい拒絶だった。
「何をくだらないことを言っているの、アリアナ。」
爪先まで完璧に整えられた母の指が、テーブルを苛立たしげに叩く。
「孤児の少年? 森に住んでた? 呪い? ……そんな馬鹿げた話、恥を知りなさい。」
父は、ただ冷たく首を振った。
「近所に知られたらどうする。うちの娘が、浮浪児などと関わっていたなど……」
「違うの! 友達だったの……助けなきゃ……!」
震えた声は、母の冷笑にかき消される。
「友達? 良家の娘が、下賎な孤児などと?」
父の顔は、氷のように冷たく歪んだ。
「もういい、アリアナ。」
そこで――すべては終わった。
◆◆◆
それからの人生は、自分のものではなくなった。
両親は手綱を締め、自由など与えられなかった。
どこへ行くにも、誰と会うにも、管理された日々。
スターの名を口にすることすら、許されなかった。
そして気づいたのだ。唯一、彼を“守れる方法”は――完全に手放すことしかないと。
そうしなければ、彼が潰される。
……だから、彼の名を、二度と呼ばなかった。
けれど、痛みは消えなかった。
夜ごと、誰にも聞かれぬよう、枕を濡らした。
震える手を握ってくれた彼の記憶が、離れなかった。
胸が、軋んだ。けれど、その痛みすら飲み込んだ。
――逃げ場など、どこにもなかったから。
更に追い詰められたのは、ある日のこと。
父が、事務的な口調で告げた。
「レイラー氏のご子息と結婚してもらう。それで取引が円滑になる。」
「結婚……? わ、私は――」
「家のためだ。お前に拒否する権利などない。」
夢も、希望も、捨て去られた。
◆◆◆
今、窓越しに沈む街を見下ろしながら――アリアナは痛感していた。
両親に奪われたのは、自分の未来だけではない。
スターの未来すらも、閉ざそうとしていることを。
だから、自分は扉を閉ざした。
名も知らぬふりをした。
冷たく、遠ざけた。
――そうすれば、彼は、自由でいられる。
彼は今、仲間に囲まれ、前に進んでいる。
これ以上、自分のせいで傷ついてほしくない。
そのためなら――己がどれだけ痛もうとも。
……たったひとつ、涙が頬を伝った。だがすぐに拭い、表情を消す。
「……私を、憎んでくれた方が……。」
その方が、彼は、この世界に潰されずに済む。
窓にそっと指先を添えながら――彼が扉越しに見せた、あの傷ついた顔を思い返す。
胸が締め付けられるように痛んだ。
「これでいい……これしか……ない。」
それでも、その痛みは、今も胸の奥を、ゆっくりと蝕み続けていた。
◆◆◆
――その頃。
スターは、なお扉の前に立ち尽くしていた。
カチリと鳴った錠前の音が、耳から離れない。
胸が痛い。まるで心を握り潰されたかのように。
仲間たちが囲む中、誰かの慰めの声すら、遠く霞む。
心は嵐の中、ただ彼女の瞳だけを思い返していた。
「……忙しかっただけかも、しれない。」
ケイドの声は、どこか自信なげだった。
「……家の事情かもしれない。」ニアもまた、静かに言葉を添える。
最も近くに立つルナが、そっと彼の肩に触れる。
「私たちがいるよ。」
だが、スターは答えない。
目に焼き付くのは、あの冷たい視線。あの――知らないと言い放った声。
本当に、あれが……自分を救ってくれた、あの彼女だったのか。
あの日、マスターに抗い、必死に手を握ってくれた彼女が……。
「……本当に……俺を知らなかったんだ。」
掠れた声が落ちる。
その苦味は、痛みより鋭かった。
エリックはため息をつき、髪を掻く。
「五年……人は変わるさ。」
だが、スターは首を振る。
「……変わった、だけじゃない。……別人だった。」
繰り返す。あの瞬間を、何度も――
冷たく、扉を閉ざされた記憶を。
蔑んだのか。
迷惑だったのか。
それとも――忘れ去られたのか。
胸が痛む。その何よりも痛い。
けれど、五年前の自分ではない。
恐れに潰され、崩れ落ちた、かつての少年ではない。
拳を握り、深く息を吐く。
「……もう考えすぎるな。」ヘンリーが、優しく促す。「……一度、戻ろう。」
けれど、スターは動かない。
まだ、心は――あの扉の向こうに囚われたまま。
長い沈黙を破る。
「……理由を、知りたい。」
その声は、痛みを抱えながらも、確かだった。
仲間たちは顔を見合わせる。
「なら……私たちで、確かめよう。」ルナが、笑みを向けた。
スターは、扉を見据える。
痛みが消えぬなら――答えだけは、求め続ける。
◆◆◆
しばしの沈黙の後――
スターは、ゆっくりと呼吸を整えた。
そしてもう一度、扉の前に立ち、拳を握って叩いた。
先ほどよりも、はっきりとした音で。
彼の背後には、仲間たちが無言で立っている。
誰ひとり、彼の意志を止めようとはしなかった。
やがて――
再び、ギィ……と、扉が開く。
だが、そこにいたのはアリアナではなかった。
姿を現したのは、一人の男。
高級そうなスーツに身を包み、冷え切った瞳でスターを見下ろしてくる。
その鋭い眼差しが、頭から足元まで、じろりと舐めるように這い回った。
古びた靴、質素な衣服――すべてを値踏みするように。
「……何の用だ。」
その声音は、静かだが硬い。
スターの鼓動は高鳴ったが、怯むことはなかった。
「……俺は、スターと言います。」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「五年前……アリアナさんに助けられた者です。……酷い場所から、逃がしてもらいました。……彼女は、俺の友達でした。」
男の表情は微動だにしない。
無表情の仮面を、ただそこに貼りつけたままだった。
「……彼女のおかげで、今の俺があります。その感謝を伝えたくて、ここまで来ました。」
声は震えていない。だが、喉の奥には確かに、痛みが残っていた。
「……なぜ、あのとき、彼女は俺を知らないふりをしたのか……それだけでも、知りたくて。」
男は、しばらく沈黙したままスターを見つめていた。
そして、ふう……と、わざとらしい溜息をつく。
「……そういうことか。」
扉が、ほんの少しだけ開かれる。
だが、彼らを中へと招き入れる気配はなかった。
「はっきり言っておこう。……その頃のことなど、すべて過ちだ。」
男は、事務的に言い放つ。
「娘はもう前を向いている。過去など必要ない。」
スターの胸が、ぐっと締め付けられた。
――過ち。
その言葉は、まるで刃のように突き刺さる。
だが、彼は拳を握り、唇を噛み締めた。
怒りでも、絶望でもない。
ただ、揺るぎない意志を保つために。
男は続けた。
「アリアナは今や、由緒ある家の娘だ。責任がある。未来がある。……こんな真似をしている暇はない。」
視線が、スターの背後――仲間たちへと流れる。
蔑むような色が、ほんの僅かに混じっていた。
スターは、静かに言い返す。
「俺は……彼女の未来を壊しに来たわけじゃありません。ただ……彼女の口から、真実を聞きたいだけです。」
男は薄く、作り物めいた笑みを浮かべた。
「……もう、話は終わったはずだ。」
スターの胃が、冷たくねじれる。
背後で、仲間たちがわずかに気配を変える。緊張が、ひしひしと伝わってくる。
「……違うはずだ。」スターは呟くように言った。「あの頃の彼女は、こんな人じゃなかった。」
男の笑みが消える。
「……しつこいな。」
冷たい声音が、静かに落ちた。
「……だが、理解しておけ。アリアナには決められた道がある。名家の令息と婚約も済んでいる。未来は約束されている。その中に――お前のような者が入る余地はない。」
胸を抉るような言葉だった。
お前のような者。
そう言われた瞬間、スターは理解した。
――己は、ここには、いない者として扱われているのだと。
けれど、足を退かない。
目を逸らすことも、背を向けることもなかった。
「……未来を壊すつもりはない。」
静かに、だが確かに。
「……ただ、本当の理由だけが知りたい。」
男は、しばしスターを見据え――小さく頷き、音もなく扉を閉ざした。
カチリ。
再び、錠前の音が響いた。
また一つ、扉は閉ざされた。
◆◆◆
スターは、その場に立ち尽くしていた。
扉は閉ざされ、目の前には冷たい木の板があるだけ。
けれど、その向こうに、確かにアリアナはいた。
胸が重い。父親の言葉以上に、心の奥を抉るのは――彼女の、あの目だ。
冷たく、どこか虚ろで……まるで、自分を知らない誰かのようだった。
背後で、仲間たちが沈黙を交わす。
「……なぁ、スター。」
ようやく、ケイドが口を開く。
「……もう、今日は引こうぜ。これ以上は……無理だ。」
ルナがそっと、袖を引いた。
「……私たちは、いるよ。」
それでも、スターは動かなかった。
胸の奥で、痛みが渦巻く。
納得できない。
あの目は……あんな目では、なかったはずだ。
助けてくれたあの日。
死にかけた自分を抱きしめ、手を取ってくれた。
あの温もりは、幻なんかじゃない。
彼女は消えたわけじゃない。
ただ――今は、閉じ込められているだけだ。
「行こう。」
エリックが、少し強い声で促す。
「……今は、策を考えよう。」
スターは、ゆっくりと瞬きをした。
そして、かすかな吐息をこぼす。
「……あぁ。」
肩を落とし、ようやく踵を返す。
歩き出す仲間たちに、遅れず続いた。
ただ、一度だけ――振り返る。
冷たい扉は、静かに佇んでいた。
――その向こうで、誰も知らぬ涙が、ひと粒、零れていたことに。
彼も、仲間たちも、気づくことはなかった。
アリアナは、窓辺に立っていた。
レースのカーテン越しに、去っていくスターの背を見つめながら、指先を窓に押し当てる。
赤く滲んだ瞳、震える唇。
声を――呼びたかった。名を、叫びたかった。
――けれど、父の声が、耳に焼き付いて離れない。
『あの男は、お前の未来にとって害だ。忘れろ。』
涙が、頬を伝う。
だが、彼女は動けなかった。
ただ、窓の向こうを見つめたまま、そっと目を閉じた。
◆◆◆




