リンとチカゲ
「どうしてこうも、上手くいかないのかしら」
千景がほうっと息を吐くと、風呂から出てきた克幸にどうした、と声を掛けられる。
克幸は、最近やっと任されていた仕事が一段落して解放され、少しずつだけれど早く帰れるようになっていた。
「何か悩みごと?」
冷蔵庫のドアを開けて、中を覗いている。
「ううん、そういうんじゃないんだけど。雪だるまのお城の王様の恋が、なかなか実らなくて」
千景は、こんな事を話して疲れが増すかしら、と思いつつ話してみる。
「おう、凛の話か。まだ、続いてるんだなあ。すげえなあ」
「そうなの、」
実際は自分が湯に潜って見ているんだけれどね、と心でペロッと舌を出す。
「王様が彼女の気持ちに気付いてくれなくて。鈍感なのよ、男の人って」
ドラマの台詞みたいな事を言ってしまったなと思う。けれど、事実だ、と思い直す。
「男はなあ、好きな子を前にすると、舞い上がっちまうからなあ。凛はそれ、気にしてんの? っていうか、王様の恋を応援してんの?」
「うん、」
私がね、と心で続ける。
「そっかあ、何か可愛いな。女の子だもんな。そういうのに興味もあるわなあ。でもさ、自分が考えている話だろ。さっさと、くっつけちゃえば良いのになあ」
そう簡単にはいかないのよ、と少しだけ、イラっとくる。何も知らない人は良いわね、などと心で独りごちる。
「たまには凛の話を聞いてあげてね。普段はゆっくり聞けないだろうから、明日とか」
明日は土曜日で、休日出勤も無い。久しぶりの、土日と連休となった。
世の父親は本当に大変だと思わされる。仕事が休みになると、途端にこうやって家で、これをやれだのあれをやれだのとせっつかれる。
千景は、さっきはイラッとしてごめんなさい、と謝る。もちろん、これも心の中でだ。
「そうだな、明日は一緒に風呂に入るか」
一瞬、戸惑う。凛が変な事を言い出して、克幸を湯の中へ誘うかもしれない。
それならそれで、良いような気もしていたけれど、自分だけの楽しみのような感覚も持っていたから、その応えに少しだけ狼狽する。
土日の朝は、少し朝寝坊できる。朝ご飯のお米を炊飯器にセットすると、タイマーをかける。起きる頃には美味しいご飯が炊けているのだから、現代の電化製品は優秀だ。
千景はそこでふと、考えた。
湯に潜る時間を長くすると、あの世界をもっと長く体験できるのだろうか。
三十秒って、短いようで長い。
それ以上は、息が続かないか、そう思って浮かんだ疑問を一蹴した。
✳︎✳︎✳︎
「何、アイリが城を出て行くだと」
シャイル王の寝室で、王は年老いた女性に服を渡していた。
渡された洋服を軽く畳みながら、王に話し掛ける。
「フィナンシェの係が次から変わりますが、身元を改めねばなりませんので。その時にご紹介致しますが、陛下の承認を賜りたく、」
「それは誠か、マロエ。アイリは城を出てどこへ行くのか」
そう言ってから、表情をくしゃりと歪ませる。
「……恋人の元か、そうだろうな」
その消えそうな小さな言葉に、マロエと呼ばれた侍従は聞き耳をたてたに違いない。
そしてマロエは、懐から紙を出した。ペンを添えて差し出す。
「ご署名を」
「まだ、良い。もう少し、先にしろ。今日はもう疲れた」
一瞬の沈黙があったが、直ぐにも「かしこまりました」と、返事がある。
千景は、この侍従長らしきマロエが何気にアイリの味方であって、王にアイリの恋慕の情を伝えてはくれないだろうか、などと思う。
けれど、千景の期待を裏切って、マロエはそのまま部屋を出て行ってしまった。
残された王は、ベッドの上に転がる。
「そうか、そうだろうな」
再度、そう呟く。
両手で顔を覆った。はあっと細く長い息を吐く。
「やめてくれ、嫉妬で頭がおかしくなりそうだ‼︎ 一体どこのどいつだ、見ず知らずのどこぞの者に、アイリをくれてやるしかないのか‼︎」
もう一度、息を吐く。吐き出された息は震えていた。泣いているのだろうか。
「俺から離れていく、離れていってしまう」
こんなにも愛し合っているというのに、何て報われないのだろうか。
千景は胸を手で押さえた。そこには痛みがあった。
アイリさんは、あなたを愛しているのです、そう大声で叫びたかった。
けれど、口を開けても、息苦しさがあるだけで、声は発せない。
こうやって、悲恋の行く末を見守るだけなのだろうか。
千景は自分がこの悲恋に、自分がかなり引き摺られているという事を感じざるを得なかった。
自分とは関係のない恋愛ごとに対して、感情移入も甚だしいと、苦く思う。
その時、誰かの声がすっと耳に入り込んできた。
「ねえ、アイリさんもあなたのことが好きだよ。見ていて、分からない? 何で気づかないの?」
辺りを見回しても、誰の姿もない。
シャイル王は、顔から手を離すと、上半身を起こした。
「誰だ、リン、ではないな」
「アイリさんもあなたを好きだけど、身分が違い過ぎるって泣いていたよ。かわいそうだよ、王さま。何とかならないの?」
「それは、本当なのか? アイリは好きな男がいると、言っていた」
千景は、覚えのある声だと思った。聞いたことがある、けれどいつだったのか、どこでだったのかが思い出せない。
「そう言えば、あなたがあきらめてくれると思っているから。そばに居られるだけで幸せだって言ってたよ。でも王さまがさあ、居もしない相手と結婚させるなんて言っちゃうからあ。もう側には居られないって」
「それは誠なのか、俺を好きだというのは、本当なのか……」
千景は胸がすっとする思いで、この二人の遣り取りを聞いていた。
「アイリさんは身を引こうとしているだけだよ。かわいそう、何とかしてあげてよ」
ここで、王が慎重に問うた。
「お前は一体誰なのだ? 何故、そんなにもアイリについて詳しいのだ? アイリの知り合いか何かか?」
そして、千景は固まってしまった。
「私は、チカゲというの」
その言葉を聞いて、身体が震えた。どういうこと、と混乱する。
私、言っていない、何も言っていない‼︎
途端にパニックに陥る。
違う、私じゃない、と叫ぼうとすると同時に、大量の湯が口の中へと入ってきた。
そうだった、ここは浴槽の中だ。顔を上げる。ごほごほと、口から湯を出しながら、むせる。鼻の中にも湯が入ったようで、つんとして、涙が滲んだ。
千景はそこで、呆然となりながら、キッチンタイマーを見た。
デジタルの数字が、二十、十九、十八と減っていく。
湯の中に入ってから、十秒ほどしか経っていなかったことにも驚きを隠せず、千景はそのままタイマーを止めることも忘れて、ただただ一ずつその身を削っていく数字を見つめていた。
そして、突然に気がついた。
この前リンが「自由」について話していた王との会話の中で、自分の母親のことを「お母さん」と言っていたことに。
違和感を感じたのは、その部分。
凛なら、ママと呼ぶはずだ。一体、あなた達は誰なの?
千景は、混乱しながら、ピッピッと鳴ったタイマーを直ぐにもOFFにすると、バシャバシャと顔に湯を掛けて拭った。




