誰か
このような悲恋を久しぶりに目にした、千景は苦く苦く思った。
けれど、シャイル王は、勘違いはしているものの、アイリの気持ちを尊重し理解しようとした。
なかなかの王だ、そう思う。
自分を抑えて、他人を優先するのは、簡単のようでいて難しい。
誰しも、自分を可愛がり優先してしまうものだ、千景は思った。
けれどこのままでは、シャイル王の恋心は実らない。
終わってしまうのだろうか、こんなにもお互いを深く深く想っているのに。
と、そこでハッとして千景は考えを改めた。
「今はそれどころじゃなかったわ」
正式にアルス国の軍師に任命された凛をどうすれば良いか。
このまま、凛に続けさせても良いものだろうか。
また戦争が始まって、あの惨劇を目の当たりにさせるのは、反対の立場を取るのは母親として当然であろうと思う。
こう言っては申し訳ないが、関係の無いどこぞの国の存続より、娘の健やかな成長の方が重要だ。
千景は更に、考えを進めていった。
このまま、しかも凛に軍師を続けさせることによって、逆にこの国に不利益を招いてしまうかもしれない。
千景は色々と考えた末、一度凛にも話を聞いてみることにした。
それによってはもう、軍師を辞めさせたほうが良いとも思う。
幼稚園から帰る凛を待つ。
おやつを用意して、イスに座る。テーブルの上には柿とスナック菓子が、仲が悪そうにして並んで置いてある。
「王様は良いわね、毎日アイリさんの手作りお菓子を食べられるなんて。でも、いつもあんな美味しいおやつだと、太っちゃうかしら」
そして半時間ほど、新聞を読みながら時間を潰した後、凛を迎えに幼稚園バスの停留所まで迎えに出た。
バスに別れを告げて家に戻り、凛と向かい合って座る。
手を洗い、うがいを済ませた凛は、柿とスナック菓子のどちらから手をつけようかと、迷っていた。
柿とスナック菓子の上で、手を泳がせている。
そういうちょっとした仕草も愛おしい。
千景はその様子を見て、凛を守らねば、と一層思った。
「ねえ、凛。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「うん、なあに」
柿、と決めたのかフォークを手にして、千景をちらと見る。
「雪だるまのお城の話なんだけどね。王様に何かアドバイスしてるじゃない」
「ん?」
「例えば、罠に『網』を使ったり、あれ、凛がそうしたらって言ったんだよね」
「ううん、」
凛は柿を頬の中に入れると、首を横に振った。ふっくらと膨らんだ頬を見て、リスみたい、と吹き出しそうになるのを堪えて、千景は話を進めた。
「ほら、話してたじゃない。『自由』のことについて。王様に、アイリさんにも聞いたらって、凛が」
もぐもぐと咀嚼しながら、「ううん、言ってない」
「前にもダイチさんの意見に賛成ですって言ってたよね」
スナック菓子に手を伸ばす。開け口を左右に引っ張ると、バリッといって袋が裂ける。バラバラと中身が落ちて、お菓子の匂いがふわっと漂ってくる。
「お皿に出して食べて」
凛はイスから飛び降りると、キッチンへ行き、棚から小皿を持って戻ってくる。
テーブルの上に散乱したお菓子を一つ一つ小皿に乗せる。
三個乗せては、一つを口に入れる。それを繰り返しては、千景を失笑させた。
「凛、お話ししてないよ。だって、お風呂の中だから、おしゃべりできないよ。お湯が口の中に入ってきちゃうもん」
「じゃあ、頭の中で思ったとか。『網』を使ってねって、頭の中でお喋りしなかった?」
その可能性もある、そう考えていた千景は、漫画みたいな話だけど、と心の中で続けて薄く笑う。
「ううん、思ってない」
ここで、千景はようやくあの軍師リンが、娘の凛である可能性を否定しなくてはならないか、と思い至った。
リン、イコール、凛と、疑うことなく思い込んでいたからだ。
もし、凛でないなら、それは有り難い。もう頭を悩ますこともない。
それならあの声は一体誰のものだろう、そうは思うけれど見当もつかない。けれど、凛でなければ良い。
千景はほっと胸を撫で下ろすと、自分の口にも柿を放り込んだ。
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「アイリ、それは本当か」
城で料理長を任されているトンが、声を荒げた。
彼の腕前に惹かれて弟子入りしてきた面々の視線が、トンと話しているアイリへと注がれる。
皆が一斉に自分を見たことに、少しだけ狼狽はしたが、アイリの決心は変わらなかった。
トンがアイリを見つめる。トンにとっても、アイリは小さい頃から可愛がってきた愛弟子と言える。
自分の弟夫婦が子沢山で、そう何人も育てられないからと言って、まだ城の見習いの料理人だった頃、トンに幼いアイリを押しつけていった。
その無責任さに、どれだけ食い下がって抗議したか分からない。
けれど、弟夫婦の態度は変わらず、涙を堪えて芋の皮を剥くアイリを、城の外へと放り出すことは出来なかった。
当時、料理長だった師匠にも事情を話し、この城に下働きとして置いて貰うことにした。
人に恵まれた、自分もこのアイリも。トンは、そう思っていた。
アイリは料理の腕は確実で、味に間違いが無い。
その持ち前のセンスにも助けられ、アイリはフィナンシェを作る責任者となった。
けれどその頃から、雲行きが怪しくなってきた。若きシャイル王に気に入られてしまったのだ。
普通なら玉の輿だと喜ぶだろう。けれど、トンはあまりの身分の違いに恐れをなして、アイリに厳しく申しつけてしまった。
王に近づかないように、と。
そしてその身分の差を、アイリも十分に理解しているようだった。
努力して、王から離れようとしている事が見受けられた。
アイリをフィナンシェの係りから外すと、王にはアイリはどうした、と途端に問い詰められた。
それをどうしたものか、と頭を悩ませていた。
けれど、最近になってようやく、その嵐が治ったかのように思っていたのに。
「はい、城下に移ろうと思っています」
「どうしてだ、陛下に何か言われたのか?」
「いえ、決してそういう訳ではありません」
「だが、当てはあるのか? 食べていけるのか?」
アイリが無理矢理、笑顔を作る。
「大丈夫です、鍛冶屋のカリンさんのお店で、料理人を募集しているそうです。住み込ませていただけると聞いています」
トンが顔を歪める。
「苦労するぞ」
「カリンさんは良い人ですから。来週にも荷物をまとめますが、どれだけの物を置けるか分かりませんので、当分の間部屋をお借りしたままで良いでしょうか? 目安がつきましたら、直ぐに取りにきますので」
「それは、構わないが、本当に良いのか?」
「はい、もう決めました」
アイリは、ふわっとした見かけに寄らず、こうと決めたらやり遂げる強い意思を持っていた。
フィナンシェ係りの昇任試験の際も、その意思の強さで難関である試験にも受かり、その称号を最年少で手にした。
もちろん、それは昼夜を問わずコツコツと勉強し、努力した結果なのである。
きっと、何を言っても決意は変わらない、トンはそう思った。
その頃はまだ、陛下のお役に立つようにと、陛下に美味しいフィナンシェを召し上がって頂きたいと、目を輝かせていたのに。
こんなことを思うのは心底恐れ多いが、慕っていたその陛下自身に、この場を追われることになるとは。
トンは、くしゃりと顔を歪ませた。
「何かあったら、直ぐに戻っておいで。我慢せずにな」
「ありがとうございます、料理長。今まで、お世話を頂きまして、感謝します」
アイリの言葉の最後は掠れて聞こえなかった。
そしてトンは、神のご加護をと、心の中で呟くしか出来なかった。




