代償
「じゆうって、何?」
「自由とはね、自分で好きな風にできることよ」
凛は、いつものように牛乳をマグカップに半分ほど注ぐと、テーブルに座ってから問うた。
「そう、ママのじゆうは、そういう意味なんだね」
「違う意味もあるの?」
「王さまが、いつでも好きな人に会いに行けることだって、そう言ってた」
千景は、皿を洗う手を止めた。この前の戦争の前に、聞いた話だろうか。
「凛は? 凛はどう思う?」
「牛乳をたくさん飲むこと」
ふふっと、千景の口から微笑みが漏れる。
「たくさん飲んだら、お腹一杯になっちゃうよ」
「そしたら、飲むのをやめる」
それも自由、私の意思だ、そう凛が続けて言ったような気がして、千景は思う。ただ、それだけでは無い、と。
「牛乳を飲みたい人が全部飲んじゃって無くなってしまったら、他の人が飲めなくなるね」
途端にマグカップを口から離す。じっとマグを持つ手を見つめている。そしてその、少しの沈黙の後、「王さまもそう言ってた」
「なあ、リンよ。俺も大きな勘違いをしていたのだ。好きな人に会いに行くのが俺の自由だとしても、そうやって押し掛けていって、その人を困らせてしまうのは、自由でも何でもない。ただの傲慢なんだと」
大広間によく通る声が、聞こえたような気がする。
「ごうまん」
凛の声で我に返ると、千景は止めていた手を動かし始めた。
「相手の気持ちを無視して、相手を見下すことよ。見下すっていうのは、相手の方が自分より劣っている、相手より自分の方が偉いと思うこと、かな」
「ふうん」
その反応に、あれ、と思う。この言葉は、凛の頭の中のポケットには入らなかったのだろうか。
「凛、『自由』っていう言葉は特別でね、人によって『自由』の解釈の仕方が違うのよ。『自由』の意味がね、人によって違うの。お父さんにも聞いてごらん。多分、ママと違うことを言うと思うわ」
「うん、わかった」
「お父さんの答え、ママの答え、王様の答え、みんなが違うことを言うと思うけれど、それを聞いた後に、凛ももう一度考えてみて。その言葉が持つ意味を。そして、考えて考えて出した答えがねえ、ようやく凛の考えになるんだよ」
少し難しかったかな、千景は苦く薄く笑った。
「もう寝るう」
そう答えると、凛は階段を駆け上がって行ってしまった。
分かったのか、分かってないのかも分からないけれど、まあそれで良い、千景はそう考えながら、エプロンを脱いで片していった。
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あの凛の青ざめた顔を見た時から、千景は何かが変わったような気がしてならなかった。
凛はあれ以来、お風呂で潜ることを止めていたし、千景もやはりそうしていた。
雪だるまのお城はどうなったのだろう、そうは思うけれど、あの戦の凄惨さを目の当たりにすれば、二の足を踏んでも仕方がない。
凛が指示したという『網』は、どのように使われたのだろう、功を奏したのだろうか、その問いが千景の中へと雲のように、すうっと広がっていき、隙間なく覆い尽くそうとしている。
凛のいない時に潜ってみようか、そう思うまでに時間は掛からなかった。
「今日はやる事があって一緒には入れないの」
そう言って、手に持った家計簿を見せる。
凛はつまらなそうな顔をしてから、渋々一人で浴室に入っていった。
数十分後、凛がホカホカの様子で頭にタオルを巻いて出てくる。
いつものように牛乳をぺろりと平らげると、階段を駆け上がっていった。
その様子を見てから、千景は湯の中へと入っていった。
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「ダイチ、ダイチ、お前は良くやってくれた。俺からも礼を言うぞ」
シャイル王が膝をついている。
それは普通ならあり得ない、荘厳で尊い姿でもあった。
しんと張り詰めた冷たい空気。王の声が響いていて、天井が高いと知れる。
「我が王よ、有難き幸せにございます」
千景には、そう声が聞こえたような気がしてならなかった。
そこに横たわる、ダイチの顔。
瞼は閉じられ、真っ白な、そこに生気は微塵も感じられなかった。
これが人の死。
千景は無理矢理にも何か重たいものを抱えさせられたような心持ちで、その光景を見ていた。
遠くの方で、女性の泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
その声の持ち主が、リアと呼ばれたダイチの恋人であることを、慰めようとする周りの者たちの声で知る。
こんなにも悲しく、悲しく泣いて響いてくる声を、未だかつて聞いたことがあっただろうか。
彼女の悲しみは、こんなにも胸を絞り上げられるような悲惨なものなのに、このたった一つの戦争が引き起こした多大なる悲しみや苦しみの、その内の小さな一つに過ぎない。
千景にも、この湯の中の庭園の人々の悲しみが次々と入り込んできて、胸が締め付けられて苦しくなる。
ここに来る時に、目に飛び込んできた、城下町の無惨な姿。
建物は壊され、人々は疲弊し怪我を負い、そこら中に人が倒れて散っていた。
「なあ、ダイチ。お前のおかげで、作戦は成功したんだ。お前の機転が、我々の国を救ったのだぞ。まずは国を建て直す、俺はやるぞ、必ずな。お前が守った、このアルスの国を、未来永劫守ってみせる」
そして、シャイル王は部屋を出て行った。
ここは、王族が祀られる廟であるのに、王が無理矢理ダイチを連れてきたと、警護の兵士が呆れた様子で、小声で話していた。
それだけ、王のダイチへの親愛の情が深かったのだろう。
王の後を追うようにして、千景の視点も変わっていった。
大股で歩く姿は、悲しみを堪えてこそのものだろう。
そして、そのまま古めかしい質素な廊下へと入ると、一つの扉の前に立つ。
ノックをしようとして、手を止めた。
そっとドアに手を触れると、頭をそのまま任せるようにして垂れる。
「アイリ、」
呟くと、ギッという音がして、静かにドアが開いた。
王が後ろへと下がる。一瞬の躊躇が見て取れた。
「陛下、」
女性がくしゃりと顔を歪ませると、「す、すまぬ、このような時間に」
王の背中が揺れる。そして、王が女性を抱き締めた。
「すまぬ、少しだけ、だ」
女性の腕が背中へと回り、そして優しく摩った。その白く細い指。
「陛下、」
「……お前はいつも、甘い良い匂いがするな」
凛が、彼女は王室の菓子職人だと言っていた。
千景はいつも焼いているマドレーヌの香りを思い出していた。
あの鼻腔をくすぐる、甘い甘い香り。
特に焼きあがる直前の、レンジから漂う香りが、至福を連れてくる。
「陛下」
優しい声が染み入るように響く。王は泣いていた。背中を震わせて。
「アイリ、アイリ、」
何度も女性の名前を繰り返していた。
けれど少しの時間に一通り泣くと、直ぐにアイリから離れ、踵を返して帰っていった。
すまなかったと、何度も言って。
アイリには、他に好きな人がいると凛が言っていたと思い到ると、この王の態度も理解できた。
けれど、王が去る後ろ姿を追う、そのアイリの表情から、この女性がシャイル王を愛していることは容易に見て取れる。
きっと、あまりの身分の違いに、遠慮して身を引いた結果の、嘘なのではないか。
千景はそれが当たりなのではないかと、陛下と何度も呟いて崩れ泣くアイリを見て悟ると、「知らなくても良いことを知ってしまったわ」と呟いて、苦笑した。
どうやら戦いには勝ったが、ダイチの他、シャイル王にも近しい人達が、大勢亡くなったようだった。
国民や生き残った兵たちがひそひそと声を落として話すのを、あちらこちらで聞きながら、千景は風呂から出た。
予想出来た結果ではあった。
「網」がどう使われたかも知った。
綱を強く縒り上げて作った網目状の大きな罠は、正門の前に土を被して隠されたものだった。
深く掘った支柱の四方八方を繋がれており、その支柱に取り付けられた滑車で浮かび上がるようになっている。
そしてそれは、次鋒が城内に入ったと同時に上げられた。
ダイチによって鳴らされた号砲が、こだまする。
ある程度の間隔で開けられた網目に足を絡め取られた馬たちが、奇声をあげて倒れ込む。
そして次々に倒れ込んだ馬たちが暴れては、周りの馬をなぎ倒していく。
兵士たちは振り落とされ、そこへ先鋒を見事な速さで叩いて戻ってきたレイ=シン精鋭部隊が、一斉に襲いかかった。
「網」の罠はその一発だけのために、用意されたのだ。
倒れ込む馬の重さで網が凄い力で引っ張られ、支柱がなぎ倒される。これで、この罠は役立たずとなってしまい、次にはもう使えない。
何という効率の悪さだ、千景はそう思わざるを得なかった。
大掛かりな仕掛けの割に、なぎ倒す馬の数が圧倒的に少ない。
これが、凛がアドバイスしたものなら、やはりその幼い頭が捻り出した子供騙しと思われても仕方がない。
よく王がこんな物に賛成したなと、苦く思った。
けれど結果、それによって先鋒、次鋒を撃破し、その精鋭部隊の圧倒的な強さに尻込みをして腑抜けた残りの本隊を破るのは容易かったようだ。
ダイチは次鋒が突進してきた時に放たれた数百、数千の矢に貫かれて死んでしまったのだ。
矢を避ける盾はぐるりと一周用意されていたが、その盾を撃ち抜かれたところを、運悪く当たってしまったらしい。
雨のように降り注いだ矢は、避けようと思っても避けられるものではない。
漫画の主人公なら死なないのに。
確か、凛もそんなようなことを言っていた。
あれから、凛は怖がってはいないかしら、少し心配になり、千景は階段を上って凛の寝顔を見に行った。すやすやと寝息を立てて眠っている顔は、安らいでいる。
この凛の顔は、どちらかと言うと父親似らしい。
そんな余計な事でも考えてみて、千景は心から、この平穏を願った。




