影の軍師
城壁の上をうろうろと歩くダイチに声を掛けようと、スローが大股で近付いていく。
開戦前のピリピリとした緊張感が漂い、いつものように肩にぽんと手を置きかけて、止める。
気軽に触れることが憚れるような雰囲気。
それには苦笑し諦めて、その場で歩を止めた。
「言いたい事は分かっている。スロー、お前、俺を脅しにでも来たのか」
スローはふっと笑うと、「門の開閉なぞ、下士官に任せておけば良いものを。リアを泣かせるようならな、大切な妹だ、お前にやるのはもうやめることにした」
「もう脅しでも何でもないな」
ダイチが笑う。
「けれど、今度はリンのお墨付きがある。これで俺の首は保証されたものだ。将来、食うには困らんぞ」
少し沈黙がある。
「批判なぞする気は毛頭ないが、最近の陛下はリンとやらを重用し過ぎているだろう」
「けれど、前回の戦ではリンの采配で勝利したようなものだった。それは認めざるを得んからな」
「まあ、そうだが」
「リンの声は陛下にしか聞こえんのだから、訝しむ声があっても仕方があるまい。けれど、彼女の功績からリンが影の軍師と呼ばれるようになったのも無理はないと思っている」
「お前を差し置いて、か」
ふ、とダイチが失笑する。
「俺は気にしていないぞ。陛下から頂戴している信頼は、ちゃんとこの身に伝わっているからな。それより、『網』の仕掛けは万全か?」
「ああ、だいぶ前から準備をしていたからな、時間は充分にあったぞ。しかし、これが必要になる日が来るとはな。この日を予見していたのだろうか、お前がこの策を思いつく日を、な。だとしたら、リンは間違いなく凄腕だが、それも姿が見えないとあっちゃ、怪しいものだ」
「そうだな、そうかも知れない」
「かと言って、『網』を使うなどと、落とし穴同然の子供騙しの策ではないか。本当に成功するだろうかと、不安にもなる」
「大将が不安に思ってどうするよ。部下にも伝播するぞ、気をつけろ」
ダイチがギロリと睨んだ。しかし、直ぐに視線を戻す。
「けれど、そう言う俺にも不安は拭えない。敵は先鋒を走らせるだろうが、その先鋒の数が気になる。少数で来られては、この作戦は空を掴まされるからな。大将が馬鹿であって欲しいが、ダイン公国の智王がそのように愚かな者をこちらに寄越すことは無いだろう」
「その場合、何か策はあるのか?」
「考えてはいるが、どれもあと一歩及ばずだ」
「お前ともあろう者が。ますます、妹はやれんな」
スローがニヤリと口角を上げる。
「さあ、お前ももう行け。あと半刻もすれば、敵が目視出来るほどの距離に詰めてくるぞ」
「じゃあな、死ぬなよ」
「お互いにな」
親友でもあり、幼馴染という長い付き合いでもあるスローの後ろ姿を見届けると、妹のリアがあのような猛者に似ることもなく、本当に良かったなと心底思い、ダイチは薄く笑った。
弓矢部隊を配置した城壁の上から、地平線の彼方を見渡す。
左手には深い森が、ここ数日強目に吹いている風によってざわりざわりと声を上げて樹々を揺らし、敵が前進しつつある眼前では、ゆるゆるとどこまでも続く緑の草原をその風が横切っていく。
けれど、ここ何度かの戦いで、草は踏み荒らされ、馬の蹄鉄により土がめくり上がり、以前のように自然の豊かさや美しさを感じられた面影も、もう無い。
直ぐにでも、ここも戦場になる。
今回は、リアのいる城内での戦いなぞをよくも決断できたなと苦く思うと、作戦を伝える合図となる号砲を鳴らす準備を進めていった。
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「ねえ、凛。凛は王様とお話が出来るの?」
城壁で、ダイチとスローの二人の遣り取りを聞いてから、これは凛に確認しなければという思いが強くなり、千景は折を見て凛に問うた。
「?」
「何か、聞かれてたみたいね」
「お話? してないよ」
千景は、戸惑った。
凛はそう言ったけれど、そして姿は見えなかったけれど、確かに凛の存在は身近に感じていたし、アドバイスを送っていたあの声も、凛の声だと確信していた。
あのきちんとした大人のような話し方からも、凛があの国で「影の軍師」と呼ばれている事に、なぜか違和感を感じなかった。
千景はあの後も数回、凛と一緒にお風呂に入っていたし、潜ってみたりもしていた。
その都度、話は更新され、新しい展開となる。
実際に声を耳にしたのは一、二回ほどであるが、もちろんその影の軍師も引き続き、王にアドバイスを寄せている。
これはもう、漫画の台詞のようであるが、異世界にでも入り込んでいるとしか思えない、そう考えを進めずにはいられなかった。
浴槽の中に、このように目を疑うような世界が広がっていようとは、一体この世の誰がそんなことを思うだろうか。
奥深き森があり、緩やかに続く丘もあり、雪のように真っ白な城もあり、そしてそこで自分と何ら変わらない人間が営みを続けている。
雰囲気は中世のヨーロッパのようで、勿論その時代を実際は知らないわけだから、自分の中にあるイメージに他ならないのだが。
千景は、まるで箱庭のようだ、と思った。
湯の中に存在する庭園。
克幸に相談すべきか。
ここのところ仕事の納期が近づいているようで、忙しそうにして夜遅くに帰ってくる克幸に、この話を話したところで煩わしさを積み上げて一層疲れさせるだけか、そう思っていつも踏み止まっている。
けれど、例えそれが想像上の存在であったとしても、一国の命運を左右させる凛のアドバイスに、千景は戸惑いを隠せなかった。




