湯の中の世界
「何か話が込んでるなあ」
克幸がそう言うので、それに付け加えるようにと千景が言った。
「しかもお風呂の中にあるんだって。お風呂で潜ると、見えるらしいわよ」
「子どもの想像力は凄いな」
克幸が感心しながら、雑誌をめくっている。
千景はキッチンで入れたコーヒーを二つ手に持って、リビングに入った。
テーブルに置くと、克幸がありがとうと小さく言う。
「ねえ、宰相とか軍師とか戦争って、そういう知識ってどこから得てるんだろうって思う。確かに本はたくさん読むけど、そんな難しい言葉を使った本なんて読んでないと思うんだけどなあ」
「テレビ、とかじゃねえ?」
克幸が雑誌から目を離さずにマグカップを取る。
口につけると、ずずっと音を言わせて啜った。
「子ども番組しか、見てないよ」
「何だろうね」
「よく喋るようになって良かったけど」
「そうだよ、言った通りだろ。そのうち喋るようになるって。今までは、言葉をたくさん貯めてた時期だったんだよ、それをいつ使おうかなってな感じでね」
克幸がどや顏で言うのが、少し笑えた千景だったが、口元に持ってきたマグカップで表情を隠す。
克幸のこういうところが、子どもっぽい部分だなと思う。
大人になっても、誰にでもそういう子どもの部分が存在するんだなと思うと、人間って死ぬ時まで大人と子ども半々を持ち続けて生きていくのかも、そんな風に思えてきて不思議に思う。
結局は、人間は完全なる大人に成り切れずに死ぬんだ、と。
そう考えを進めていたところで、克幸が、「ねえ、今度飲み会があるんだけど、お小遣い足りなくて」と言う。
今度は表情を隠せずに、ふっと吹き出してしまった。
「ふふ、分かった」
そう言って笑いながら立ち上がると、壁に掛けてあるカバンから財布を取り出した。
「まだ、ランドセル買ってない?」
克幸が小さく訊く。
「うん、まだ」
千景は財布から千円札を数枚取り出すと、はいと渡しながら、答えた。
✳︎✳︎✳︎
「ママも潜ってみたら?」
凛の言葉に、今まで生返事を返していた事に気付く。
リビングのテーブルで家計簿をつけていると、没頭してしまってまるで他ごとを寄せ付けなくなってしまう。
千景は顔を上げて一息つくと、「そうね、」と言った。
これも生返事に入るだろうか、けれど凛はやったーと言って両手を上げて小躍りしている。
ぴょこぴょこと飛び跳ねる姿を見ると、まだ年長だな、と年相応に見えて少し安心する。
まあ、たまには一緒にお風呂に入っても良いか、それぐらいの気持ちで返事を返す。
「じゃあ、入ろうか」
湯船に浸かった凛は、何だか楽しそうだった。
キッチンタイマーをセットし、じゃあいくよっ! と言って、ほうっと息を大きく吸い込む。
そして、ばしゃりと水飛沫をあちこちに飛ばしながら顔をつけた。
けれど、タイマーがその電子音を鳴らす前に、凛は顔を上げた。
「ママもっ! ママも潜ってよ」
こんな事、いつ以来かしらと頭のどこかで思いながら、「分かった、分かった」と言う。
「ちゃんと目も開けなきゃだめだよ」
そう言われることを予測して、コンタクトは取ってある。
「でも眼鏡無しで見えるかなあ」
不安そうに言うと、大丈夫と思う、そう言ってニコッと笑った。
どうやらこれは本当に潜らないといけなくなってきたようだと思い、観念して心づもりをつける。
凛は再度、タイマーをセットした。
「じゃあ、いくよ、せーのっ」
そして、千景も今度は湯に顔をつけた。
そして、目を開ける。
眼球にお湯の温度を感じる。
鼻からぽこぽこと空気が出ていくのが分かる。
そして、途端に動揺した。
目の前の景色に。
信じられなくて、何度も目をこすって見返したくなるような、その景色に。
何だろう、これは。
ここはサラリーマンである克幸が毎日仕事をこなし、その給料でローンを組んで買った家。
そして、そんな三人家族が住む、普通の家の浴室の浴槽であるはずなのに。
目を疑って、そして自分をも疑った。
湯船の底に広がる広大な大地。
一旦入れば迷い込んでしまうような深い深い森、薄緑の緩やかに続くだだっ広い草原。
そんな風景を、高い高い空から眺めているような、そんな景色。
そして、その緩やかな草原を目線で登っていくと、その小高い丘に城を真ん中に据えた一つの街があった。
ぐるりと一周、背の高い城壁が守っている。
そしてその中央に建つ真っ白な城。
もしかしてこれが雪だるまのお城か、そう思った瞬間、ぶわっと目の焦点が絞られるようにして、あっという間に自分の視線が城の中へと入っていった。
この信じられない現象を前に、千景は慌てずにいられた。
それは、直ぐ近くに凛の存在を感じられたからだ。
どこにいるのか、視界には入らないこそすれ、毎晩ソファで寄り添って本を読む時のように、凛の体温を感じることが出来た。
不思議なことに、この景色を共有している、そう思うことも出来た。
「凛、」
そう声を掛けたかったが、口は動かせないような気がして止める。
今は目の前に現れた映像を見てみよう。
いや、映像のようなもの、か。
「親愛なる王よ、私の言葉を聞いては頂けぬのでしょうか」
はっとした。
人がいる。
気がつくと、千景の視点はある部屋の天井から、下を見下ろしているような格好になっていた。
部屋には数人、そして何故だか部屋のドアの向こう側に二人、見えはしないのに人が立っているのが分かる。
そして、荒げられた声で我に返った。
「相手は千の兵力だぞ。そのようなぬるい作戦で、この戦に勝機はあるのか、ダイチ‼︎」
「ですが、無策でただ兵を戦わせるのでは、それこそ無謀と言わざるを得ない。無駄死にです、陛下」
どうしてこのような話が耳に届くのか、千景は不思議に思った。
この世界自体が不思議であるのに、人の声がこれ程までに鮮明に一字一句はっきりと聞こえることも、不思議でならない。
「シャイル王、我が王よ。よくお聞きください。敵はもう、直ぐそこまで来ています。城門を直ぐにでも開け、そして先鋒の部隊を中へと誘き寄せるのです」
「それでは、城内が戦地となってしまうではないかっ」
「ある程度は仕方がありません。全勢力の数ではこちらが圧倒的に不利です。けれど、国民が決起してくれています。武器を取り、一緒に戦ってくれます。とにかく兵力をまずは半分に削り、城内に入った敵だけを集中して倒し、そして残り半分は門を閉じて城外に足止めします」
ここで、ダイチと呼ばれていた男が机の上に地図を広げた。
この城を中心とした城下町の地図のようである。
ぐるりと囲んだ城壁が、やはりこの地を守っているようであった。
そこに幾つかの門が、等間隔に描かれている。
このダイチと呼ばれた者が軍師か、ぽっとそう思い浮かんだ。
凛が確か、軍師がいると言っていた。
しかし同時に、こうも思った。
なぜ、凛の話と繋げているのだ、と。
そこでおや、と千景は気付いた。
その地図の右上に何かマークのようなものが描かれている。
凛が描いていた紋章に似ている。
「城内の敵を叩くのに、あまり時間は掛けられません。ですから、ここから、ここ。この扇形に引いた線上に、レイ=シン部隊を配置。千の敵兵の内、先ずは先鋒として半分の数、半分と言っても五百以下だとは思いますが、それくらいの兵を寄越すでしょう。五十人の精鋭で五百の兵なら、一人で十人叩けば、潰せるはずです。民にはそれを援護して貰う」
ダイチが更に線を引く。
「その後ろに、通常の兵を配置。万が一、先鋒を潰すのに時間が掛かって門が破られた時、その門の近くの兵が敵を叩きに行く」
「門を下ろすタイミングは? 誰が合図を?」
甲冑を纏った屈強な男が口を挟む。
「……私がやります」
ダイチが、意を決したように低い声で言った。
「それはならん、危険すぎる! 城門の上は矢面に立たされるのがおちだ。ダイチ、お前が狙われるんだぞ!」
王は興奮を抑えようともしないで、乱暴に言い放った。
「けれど、これは俺の作戦です。敵の戦力を半分に出来なければ、失敗する。私が見計らいます。それから、以前からリンに言われて用意してあった『網』を使うつもりです」
ここで、え、と思う。
「リンっ‼︎ お前はどうだ、お前はどう思う?」
千景はこの緊迫した遣り取りをどこかで不思議に思いつつも、ずっと見続けていた。
この見知らぬ世界の情勢の何をも分からないま、何も知らないままに。
けれどこの戦争はどうなるのだろう、どちらが勝つのだろうと、テニスか何かの試合を見ている観客の一人であるように好奇心丸出しで、眺めていたところがあった。
けれど、現実に戻される。
リンとは、私の娘のことだろうか。
いや、そんなはずはない。
この部屋にいる、どの人がリンだろう、千景は目を凝らすようにして一人一人を見て回った。
こうやって天井から見ているのって、幽霊やら霊魂のようね、などと小さく思いながら。
「私もダイチさんの言う作戦で大丈夫と思う。ただ、精鋭部隊の人達には、一人何人のノルマがあるかを伝えておいた方が良い。それぞれの目安になると思うから。あと、『網』を使うつもりなら、ひどく引っ張られるはずだから、ケガしないように注意して」
千景はその声を聞いてギクリとした。
凛の声に似ている。
背筋に冷たいものが流れるような、ぞっとするものを感じた。
どこにいるの、凛。
「大丈夫だ、『網』は深く掘った支柱に繋いである。しかし、一般的な罠に使う綱ではなく、網を用いるとは。考えも寄らなかった」
ダイチが少しだけ慌てて言う。
「けれど、それが上手くいくとは限りません。慎重に事を運ばねば。万が一、失敗した場合の事も考えておかねばなりません」
千景は部屋の中を隅々までもう一度確認した。
けれど、部屋には甲冑を身に纏った兵士のような面々と、ダイチと呼ばれる軍師、そしてシャイルと呼ばれていた王とその傍らに立っている男。
この髪の長い男が「宰相」だろうと想像に難くない。
しかし、子どもの姿など、どこにも見当たらない。
「良く分かった。リンもお前の案に賛成という事だ、ダイチ。レイ=シン部隊に伝言を命ずる。部隊を配備し、一人十人を目安に倒すように、と伝えよ。レイには、十人は難しくても最低五人は倒すようにと。シンには、レイが十人以上を目指していると情報を流しておけ」
「御意‼︎」
そう言って一人の兵が扉を開けて出て行った。
思った通り、ドアの向こうには二人の兵が立っている。
「では、ダイチ、頼んだぞ‼︎ リアに会っていけ、死ぬなよ」
苦い顔で声を掛ける。
リアとは誰だろう、恋人だろうか、そう思ったけれど、凛の居場所のことで頭が一杯で、深くは考えられない。
千景は、凛、と声を発しようとした。けれどその刹那、ピッピッピッと規則正しい音がどこかから聞こえてきて、何の音だろうと気が逸れる。
「キッチンタイマー、」
心で呟くと、今まで見ていた景色が早回しで逆再生になる。
部屋に居たはずが、どんどんと視界が千景の意思に関係なく勝手に上昇していき、真っ白な城の外観が見え、そして森が、草原が、その草原に敵の黒い軍隊らしき一塊の影が、そして最後には青い青い空が見え、顔を上げるとそこに凛の顔があった。
そう、周りを見渡してもそこには森はなく、代わりにお風呂用のアルファベットポスターがあり、向こう側には浴室の鏡と台の上には取っ手のついた桶が斜めになって転がっている。
驚きの中、今一度、凛を見る。
凛は、濡れた顔を両の手のひらで一生懸命拭っている。
そして自分の顔のそこら中にも、ダラダラと湯が伝っていく感覚に、ようやく気がつく。
そしてそうやって気がついて見ると、その流れる湯の動きが、次第に不快な気持ちを連れてきて、正気が戻る。
額に張り付いた前髪が気持ちが悪い。
千景はようやく、ここが家の浴室だと認識すると、前髪を手で拭い上げた。
「三十秒なんて、すぐだね」
凛はそう言うと、ニコッと笑って続けた。
「ねえ、ママ。ぎょい、って何?」
千景は、凛の紅潮した頬を見た。
まさか自分の娘が一国の国王にアドバイスをする立場になっているとは、いや、その前にお風呂の湯の中に、こんな世界が広がっているとは。
凛と私にだけ、見えているのだろうか。
それとも、夢、妄想。
私の中から出ることのない、その手の類のものなのだろうか。
凛を驚きの中で見つめる。見続けるしかなかった。




