潜る
余り喋らないかもと思い始めたのは、二歳頃だろうか。
もともと赤ちゃんの頃から言葉が遅いという印象はあったけれど、まるで話したがらない凛を連れて、保健センターへと相談に行ったことがある。
そこで言葉の教室に通うように勧められた。
凛の父親である克幸は、そんなのは気にしなくても良いと言って、済ましてしまう。
けれど、世の父親は子育てのどのような場合でも、鷹揚に構えていることをママ友から聞かされていたし、こういった育児のことで焦燥感を持つのは毎回、母親であるという事も知っていた。
けれど、心配はするが、あまり思いつめちゃだめだとも思う。
小さなことで湧き上がってくる焦りのようなものは常について回ったし、凛を見ていて一つでも出来ないことがあると、それが気になって夜も眠れなくなる。
発育が遅いのは、私のせいだろうかと、千景は何度も自問自答を繰り返していた。
気にし過ぎはダメですよ、余計に凛ちゃんを不安にさせますよ、そう言われると、今度はそれが気になって仕方が無い。
そんな風にして千景は、常に自分が母親として不十分な子育てをしているのではないかという不安感を、いつまで経っても払拭することが出来ずにいた。
けれど、言葉の問題は、教室に通ったのもあったからか、最近はよく喋るようになった気がする。
まだ自分の中では「解決」とするまでには至っていない、が。
千景は夕食の後片付けを進めながら、まだ風呂から出てこない凛を想った。
ひとしきり、片付けが終わり、凝った肩を上げ下げしながら時計を見る。
凛は何時からお風呂に入り始めたっけ、そう考えると、あまりに長いその時間に小さく驚く。
「まだ入っているのかしらね」
そして、エプロンを外しながら、洗面所へと入った。
しん、と静かで何の音もしない。
凛、と呼びながら浴室のドアをガチャンと音をさせて開けた。
ぞくっと背筋を冷たいものが走る。
浴槽に凛がうつ伏せになって浮いている。
「凛っ‼︎」
千景が慌てて、その身体を抱き起こす。
すると直ぐに凛は、ぷは、と息継ぎし、顔についた湯を手で何度も拭った。
「凛っ‼︎ びっくりさせないで‼︎ ママ、心臓が止まるかと思ったわよ、もう‼︎」
「どうしたの?」
きょとんとした顔になる。
だらんと垂れた前髪から、お湯が流れてぼたぼたと水面に落ちていく。
「水に顔がつけられるようになったからって、危ないから長い時間潜っちゃだめ!」
水泳教室に通い始めた頃、凛は顔に水が掛かるのも嫌がった。
お風呂の時間に凛の髪をシャンプーするのも、大変なくらいだった。
それもあって入れた水泳教室で、水が徐々に平気になると、今度は一人でもシャンプー出来るようになり、みるみるうちに、一人でお風呂に入れるようになった。
けれど、違う心配事が出てきてしまったと、千景は苦く思った。
「人間は息してないと死んじゃうんだよ。水の中は、息できないでしょう。気をつけないと駄目だよ」
「何分なら大丈夫なの?」
「三十秒くらいかなあ」
「じゃあ、目覚まし時計使う」
「……そうねえ」
そして、キッチンタイマーを透明のビニール袋に入れチャックを閉めて渡す。
使い方は、よく台所を手伝ってくれる凛には、特別教えなくても良い。
浴槽の壁の金属部分にピタッとマグネットで付けてあげた。
「ありがとう、でも人って水の中では死んじゃうんだよね」
千景は、だから気をつけるようにねと、再度念を押す。
「じゃあ、何でお城の人たちは生きてるんだろう。それって、水の中で息をしているってこと?」
「?」
いつものように、凛の言う言葉から何かを連想する。
けれど、今回はどれだけ頭を捻ってもお手上げだった。
千景は両手を上げて降参のポーズをすると、「それってどういう意味か分からないわ。説明してくれる?」と言った。
凛はキッチンタイマーを弄りながら、三十秒に設定をすると、「お風呂の中にあるお城の人は、どうやって息をしているんだろう」と言う。
千景に聞いたのか、自問したのか分からないような言い方をすると、大きく息を吸ってからタイマーのスタートを押した。
そして、潜った。
湯の中へと、彼女は潜っていった。
千景は心配から様子を見たいのと、凛の言った意味をもう一度だけ問うつもりで、身体に纏い付く湿気を感じながらも、その短いようで長い三十秒を待ち続けた。
✳︎✳︎✳︎
「ねえ、『こぶ』って何?」
今日も牛乳を飲みながら話す。
「こぶってのはね、頭をぶつけたりした時に、ぷくっと膨れるやつだよ。凛も三歳の時だったかなあ、リビングを走り回っていたら、滑って転んだ所にちょうどテーブルがあって、」
「ごつん?」
「そう、泣いた泣いた。おでこをぶつけたんだけど、みるみる膨らんでこぶが出来た」
「ふうん」
「お父さんが大慌てしちゃって。病院に連れて行くって、もう夜だったから救急にかかったの。まあ、大丈夫だったけどね」
「ふうん、でもそのこぶと違うかなあ」
牛乳の入ったマグカップをコトリと置く。
「雪だるまのお城の王さまのそばにいる、ぐんしっていう人がいるんだけど、その人がこぶって言ってた」
千景はここで、ん、と思った。
いつもの話の続きだったのか、そう思う。
「その人がねえ、『王さま、兵士をこぶしてください』って、言ってたの。だから、そのこぶじゃあない気がする」
難しい言葉を知っているのね、そう言い掛けて言葉を呑む。
最近読んだ本の中に、「鼓舞する」を使うような、そんな話があっただろうか。
図書館で借りてきた本に、確かお城やお姫さまが出てくる話はあったように思うけど。
千景は不思議に思った。
それに、そういう話があったとして、そんな幼児書で「鼓舞する」などと難しい言葉を使うだろうか。
「そのこぶ、は確かに違う意味ね。兵隊さんたちに王様が言ったのなら、それは兵隊さんたち、戦争では頑張って戦ってくださいねって、励ますのよ。元気にさせるっていうか、奮い立たせるっていうか」
ここで気がつく。
「奮い立たせる、は難しいか」
「ううん、分かるよ」
凛が持つマグカップには可愛いクマのキャラクターが描かれている。
これは近所で毎年行われる陶器市で買ったものだ。
けれど、凛が気に入ったわけでなく、私が凛に似合うだろうと思って買ったものだ。
予想通り、このマグカップを持つ凛は可愛らしい。
「昨日は戦争だったね、今日は?」
「そのせんそうの続き。いちじきゅうせん、だったんだけど、もうすぐねえ、始まるとこだったの。始まる時に、キッチンタイマーがなったから」
一時休戦、これまた難しい言葉を。
千景は、この子の頭の中どの部分に、そんな難しい言葉をストックしておく場所があるのだろう、そう思って苦笑した。
言葉が遅いと思っていたのに、実は言葉に関しては何らかのセンスのようなものがあるのかも知れない。
お父さんが仕事から帰ったら、少し話してみよう。
そう小さく決めると、炊飯器のタイマーをセットした。
✳︎✳︎✳︎
凛の話す物語を一度、詳しく聞いてみよう、そうは思っていたけれど、その役目を父親の克幸に譲ってしまうとは思いも寄らなかった。
子育ての良いところは父親が持っていく、そんな事を亡くなった母が言ってたっけ、そう考えて千景は納得できたような心持ちになる。
「凛、何か今面白いお話をしてくれてるみたいだねえ。お父さんにも聞かせてくれないか?」
「お城のお話?」
「そうなのか?」
そう言って、私の顔を見る。
「雪だるまのお城、よ」
「そうなんだ、でお城には人が住んでいるのか?」
「うん、たくさんね。王さまと、家来の人、兵士、あと、さいしょうって呼ばれている人とぐんしっていう人」
「ふうん、宰相と軍師か。名前はないの? アレキサンダー王とか、ウィリアム王とか」
克幸がそれらしき名前を捻り出そうとしている。
「あるんだけどね、覚えてない」
子どもに有りがちな、淡白さで返されて、苦笑いを見せる。
「じゃあさ、幼稚園はどう?」
「うん?」
今度は千景が苦笑する。
幼稚園児に、どう? は通じない。
具体的に、何をして遊んだの? とか、仲良くしてる友達は誰? とか、そういう聞き方をしないとと、そう何度言ってもこの抽象的な問い掛けの癖がなかなか直らない。
「幼稚園は楽しい? お父さんにもお話ししてあげて」
横から助け舟を出す。
「楽しい時と、楽しくない時がある」
「楽しくない時?」
親にとっては、そちらが気になるのだろう、克幸が慎重に問う。
「ゆみちゃんがね、凛のこと変って言うの」
「どうして?」
「凛がお母さんのことをママって呼ぶのに、お父さんのことをお父さんって呼ぶのはおかしいって」
凛がメモ用紙に何かを書き始めた。
千景と克幸は顔を見合わせた。
この件については、凛が産まれた時、二人の間で取り決めたもので、その時はこんな事態を招くとは思いも寄らず、それこそ苦笑するしかない、と思う。
自分のことを子どもにどう呼ばせるか、大体は自分が育った環境に準ずるのではないかと思うけれど、千景は千景でお母さんなんて一気に歳を取ったように思えて嫌だったし、克幸は克幸で、パパなんて気恥ずかしい呼び方は嫌だとお互いが言い張って、結局どちらも折れなかったというだけの事だったのに。
「そっか、じゃあ凛がそういうの嫌だったら、ママのことお母さんって呼んでもいいよ」
「ううん、今のままでいい。全然、おかしくないもん」
「そうか、凛が気にしないならいいけど。呼び方はママとお父さんがそうやって決めたんだよって言っていいからな」
「うん」
凛の気にしてなさそうな表情にほっと安堵の息を吐くと、凛、何を書いてるの? そう言って、後ろから覗き込む。薔薇のような花と、馬のような動物が描かれている。
「これはお馬さんかな?」
「……だと思う、たぶん」
「凛、自分で描いているやつだろ。それなのに、多分って何だよ」
あはは、と声をあげて克幸が笑った。
「お城の入り口のドアに描いてあるの」
「紋章ね」
「もんしょう……」
凛の頭の中のポストに一つ言葉が入れられたわね、そう思いながら千景は夕飯の支度を進めていった。
「お姫様はいないの?」
克幸の有りがちな質問に、千景は微笑んだ。
「雪だるまのお城にはいないの」
「じゃあ、お城の王様はまだ結婚していないんだね」
「うん、好きな人はいるよ。お城でお菓子を作っている人。王さまが好きって何回言っても、好きって言ってもらえなくて、かわいそうなんだ」
急に大人の恋愛事情に突入したなと思い、失笑するしかない。
克幸もそう思ったのか、「それは可哀想だ」などと、頭を掻きながら言っている。
「お父さんもママに好きって言ったんだよね」
「そうだよ、それでママも好きって言ってくれたから結婚したんだ」
「じゃあ、王さまはいつまでたっても結婚できないね」
「いつかは出来るんじゃないの」
「ううん、お菓子のおねえさんが言ってたもん。他に好きな人がいるって」
それは残念、王様でも失恋はするのね、千景はそう思いながら大根を切っていった。
今夜は豚汁と生姜焼きのメニューだ。
いつも生姜焼きは、辛いのが駄目な凛のために、生姜を少しにして、甘めに味をつけている。
大根をすっかり切ってしまった千景は、冷蔵庫から人参と豚肉を出した。
「振られちゃったかあ。まあ、そういう事もあるわなあ」
「あるの?」
「んあ?」
「お父さんは?」
凛のすかさずの問い掛けに、克幸が一瞬怯んだのが分かり、ふっと吹き出してしまう。
「まあ、そうだねえ、あるかな」
人参を切っていた手を止めて、出汁をだしている鍋の火を弱める。
「かわいそう」
お父さんの事なのか、王様の事なのかは分からなかったけれど、凛はそう言いながら机の引き出しから色鉛筆を引っ張り出すと、自分が描いた紋章に色をつけていった。




