凛の世界
「陛下、本日は焼菓子をお召し上がり下さいませ」
「ああ、美味そうだ」
シャイル王が、皿の上の焼菓子を一つつまみ、口の中へと放る。
「美味いな。うん、これは戦場でも簡単にほうばれるし、疲れを癒す甘さもあるから兵士の士気も上がりそうだ。マロエ、レイ=シン部隊にもこれを配るよう、伝えてくれ。急で悪いがと、料理長のトンにも伝えてくれないか」
ティーカップにお茶を注ぐ手を休めると、侍従長のマロエが「かしこまりました」と言い、またすぐに仕事を続ける。
この寡黙な年配女性を苦手としているのか、長い時間を置いてから、シャイル王は訊いた。
「これは……この菓子は、その……アイリが?」
マロエがきついと評判の冷たい視線を向けてくるのを苦く思いながら、シャイル王はそれでもその返答を待った。
「もちろん、彼女はフィナンシェ係ですので」
簡易な返答でも、その応えで十分満足した。
もう一度、焼菓子を口へと運ぶ。
舌の上でほろりと崩れ、溶けていく。
甘みが自分の脳へと直接届くような気がして、シャイル王は眼を瞑った。
(この甘さも、俺の知らない誰か……のもの、なのだな)
心臓が、ちりと痛む。
もう以前のような狂ってしまいそうな嫉妬も、今では落ち着いてきている。
(……そう思っていたのだが、)
テーブルの上に置いた手の甲を見つめる。
いつの間にかそれは、握られていた。
知らず知らずのうちに。
やはり、そのやり場のない感情は、自分をこれ程までに追い詰めてくる。
(嫉妬とは、なんとも厄介なものだ)
小さく、ふっと吹くと、甘さが占領していた口の中へと、お茶を流し込む。
甘さは途端に無くなり、次にはお茶の苦味だけが広がった。
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「お風呂に入って、頭を冷やしてくるね」
言っている意味がまるで分からない、と千景は思った。
ただ、そう言っているのは、もうすぐ6歳になろうとしている彼女の娘、凛だったので、いつものようにさらりと流す心づもりをつける。
しかも、そういったことはここ小笠原家では頻繁にあったし、凛の言う言葉から関連のありそうな事柄を連想する、そんな風景にも慣れてしまっていたので、今回のこの言葉にも特に動ずることは無かった。
この言葉から分かることは、と考えてみる。
きっとこうだ。
お風呂に入って意識をハッキリとさせてくるね。
いや、違う、と千景は思う。
来春、小学校に入学予定である年齢を考えてみる。
お風呂に入って温まってくるね、か。
全くもって逆の意味だけれど、雰囲気というか、大まかな意味は当たりのような気がする。
それに、それが普通の使い方だ、とも思う。
凛は少し変わった所がある。
母親の千景ですら、そう認識していた。
とにかくボキャブラリーが豊富なんだか足りないんだかが、まず判断がつかない。
しかも、その語彙の使い方の分からなさに半端がない。
こちらが理解できない文章をさらりとシンプルに、それが当たり前というように口にするからだ。
「いってらっしゃい」
千景は、まあそう答えるのが無難ではないか、などと思いながら、振り返っていた頭を元に戻し、最後一枚になったお皿をゆすいだ。
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「今日はねえ、『せんそう』だった」
この所、何かの本から得た知識なのか、それとも何かを頭の中で創り上げているのか、凛の話が面白い。
「凛、戦争って言葉を知っているの?」
「うん、いつもの大きなお城あるでしょ、そこから馬に乗った人がいっぱい出てきて、山を越えたすぐ近くの違うお城の人と、せんそうしてた」
大人が思う「戦争」は、血生臭いイメージがあるけれど、5歳の口から出る「せんそう」は、何だか可愛らしい印象すらあると、千景は不思議に思った。
凛がお風呂上がりのほかほかの顔をして、リンゴが散りばめられたパジャマ姿だから、余計にそう思うのだろうか。
「何で戦っていたの? 剣? それとも、」
「弓矢!」
言うが早いか、椅子から飛び降り駆け出していく。
オモチャ箱をガチャガチャと探り、去年の夏祭りの千本引きで当たった玩具の弓矢を引っ張り出してきて、弓に矢を番えて構えると、ひゅっと飛ばす。
もちろん、真っ直ぐには飛ばない矢が、ばしっと音をさせて障子に当たった。
千景は障子が破けないか、ヒヤヒヤしながら苦笑して言う。
「どっちが勝ったの?」
凛は弓をそこら辺にぽいっと投げると、また小走りでキッチンのテーブルまで戻り、椅子に座る。
ゆらゆらと身体を揺らしながら深く座り直して、お風呂上がりにいつも飲む牛乳が入ったマグカップを手に取った。
ごくっ、ごくっと小さな喉が震えて動くのを見つめていると、障子の穴ぐらいどうってことない、などと思い知らされる。
千景は頬杖をつきながら、凛が喉を震わせて牛乳を飲む、その様子を見ていた。
空になったマグカップを置く。
「あのねえ、お城の人が勝ったの」
「あら、どっちのお城かしら」
「えっと、いつものお城の方」
そうなんだ、そこまで話したところで、空いたマグカップをゆすぐ為にキッチンへと移動する。
凛は足をぶらぶらとさせながら、何かをぶつぶつと呟いている。
名前をつけなきゃ、「決めたっ。お城に名前……えっと、雪だるまのお城、にしよ」
「あら、雪が降っているの?」
千景は少し離れた凛にも届くようにと、少しだけ声を張り上げた。
「降ってない」
「じゃあ、どうして?」
「白いから」
「白い雪だるまのお城が、戦争に勝った。そういうことね」
文章を簡潔に作り、再度言い直す。
これは、凛がまだ幼い頃、「言葉の教室」に通っていた時に指導された、親用のマニュアルから身につけたものだった。
癖というものは、一旦身につくと、なかなか手離せない。
もう必要ないかなと、最近は思うけれど。
うん、と返事が返ってくる。
そして、もう寝るっと言うと、階段を駆け上がっていってしまった。
千景は階段の下から、おやすみと声を掛けた。
返事は無い。
同じ歳の娘を持つ近所のママ友が、凛の頭を撫でながら言っていたことを思い出す。
「そんな一人寝なんて全然出来ないよ、うちは当分無理。お姉ちゃんでも6年生までは私と寝てたもん。それに自分から寝に行くなんて、凛ちゃん、すごいねえ」
一人で寝るようになったのは、凛が面白い話をするようになってからだ、そう気付く。
それなのに、とも思う。
来春、小学校に上がる予定であるのに、少し前から小学校には行きたくないと言い出した。
言い出した日、今日は気が乗らないのかしらと思い、一週間考える時間を取ってみたが、凛の考えは変わらなかった。
千景はもうそれだけで、焦りを感じずにはいられなかった。
不登校だなんて、どうしよう、まさか自分の身にこのような難問がのしかかるとは、と。
どうやって、凛を懐柔して言いくるめれば良いのか、そればかりが頭を占め始めていった。
凛はある日、学校って行かなくても良いんでしょ、と言った。
千景は全ての子どもが受けるべき義務教育について、それを受けさせる親にも責任と義務があるという事から、説明した。
けれど一通り分かりやすく説明しても、凛の態度は一層頑なになり、ただただ難色を示すだけなのだ。
「だって、隣のタイヨウくんだって、学校に行ってないよ。タイヨウくんのママが言ってたもん」
隣の井出さんの小学生の息子、太陽くんが不登校になっているというのは、奥さんに聞いて知っていたし、凛が幼稚園に行く時間、バス乗り場から帰る時に、犬の散歩に出る太陽くんに会って挨拶することもある。
「幼稚園と一緒だよ」
千景がふうっと溜息を吐きながら言うと、
「いっしょじゃないよ、カバンの大きさがちがうもん」
「ランドセル、ハートとかついてて可愛いよ」
「あれはたくさん、入り過ぎちゃうんだよ」
「本がたくさん入って、お勉強をたくさんしなければいけないのが嫌だなって思ってる?」
「そうじゃなくて。楽しいものでもイヤなものでも、たくさん入っちゃうのがイヤ」
千景はうーん、と頭を捻りながら、この凛の答えを自分の中で噛み砕いて理解しようとした。
けれど、そうなの、と告げると早々に降参してキッチンに戻ってしまった。
シンクの中にあるマグカップを無心で洗うと、水切りかごに逆さに置く。
知らず知らずのうちに、はあ、と溜息が出た。




