戦いの火蓋
リンの思惑通り、戦を一日、先送りにすることが出来た。
けれど、王を人質にしたという嘘は、敵軍の将軍の怒りを買い、兵達の士気を高めてしまった。
地鳴りのような敵軍の雄叫びが聞こえてくる。
開戦の火蓋が切られようとしている。
シャイル王は既に、意思を固めていた。自ずから甲冑を身を纏い、兵たちの前へと大股で向かう。
城の大広場に集まった兵の中に、王自身が鍛え上げた精鋭部隊の姿はない。
実は遠征と偽って身を隠し、明け方のまだ暗いうちに、裏城門から出て、今は城から見て左手の森の奥深くにその身を隠していたのだ。
「新兵をもっと集めたかったが、今更だ、仕方あるまいな」
心で呟き、兵の前に立つ。皆が王を見る。ぶるっと身体が震える。王は前を向き叫んだ。
「我がアルス国の兵よ! 今日目の前にある敵を倒さねば、明日はお前たちの愛する家族が苦しむこととなる。我が国の命運は、お前たちの手の中にある。私は何としてでもこの国を守り抜く! 愛する者も国民も、この手で守り抜くぞ‼︎」
シャイル王の意気込みに感化され、兵たちが口々に叫ぶ。
「王陛下、お言葉をお掛けください‼︎」
「どうか勝利のお言葉を‼︎」
王は一息息を吸い込むと、
「勝つぞ! 必ず、勝利するぞ‼︎」
おおっ、と拳を突き上げる。どっと歓声が上がり、士気が高まる。
けれど、兵士の数が圧倒的に少ないアルス軍が、簡単に勝利できるかと言えば、そうではない。
かつてこれ程までに分が悪い戦があったであろうか、そう思うとシャイル王は苦笑する他なかった。
シャイル王はその気持ちとは裏腹に、拳を突き上げて叫んだ。
「我がアルス国に勝利をっっ‼︎」
何度もそう繰り返す。自分を鼓舞するつもりもあったのだろう、そう伝わってくるような、そんな心からの叫びだった。
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「ねえ、凛。あのまま戦争になってしまったら、雪だるまの城は負けちゃうと思う?」
凛が折り紙の折り方の本を横目で見ながら、何かを折っている。その辿々しい手つき。やはり、軍師リンとは別人だ、そう千景は心の中で呟いた。
「んー? うん、」
その曖昧な返事が何とも可愛らしく、千景は机に頬杖をつきながら笑う。
千景が笑ったのにも目もくれず、凛は言った。
「負ける、かな」
やはりそうか、千景はここでもやはりがっくりと肩を落とすこととなった。
結局のところ、凛は軍師では無かったけれど、この世界を唯一共有する凛にまでそう言われてしまったら、何となくもう仕方がないことと諦めるしかないような気がして、悲しく思う。
こんなに胸の痛い気持ちは、久しぶりに湧いて出た。
あれはいつだったか、まだ赤ちゃんだった凛を連れて、保健センターへと向かうバスの中で、隣に座った見知らぬお婆さんに、話し掛けられたことを思い出す。
「あら、元気そうな男の子だねえ、」
その後に何を言われたのか、覚えていない。それほどの悲しみが襲いかかってきていた。
母親とは、そんなちっぽけなことで、落ち込んだり悲しくなったりするのだ。それが、母親というものだ。
不思議に思う。あの時、ただ笑顔で、
「あら、女の子なんですよ」と、返すだけで良かったのに。
俯いて、何も言わなかった。言えなかった。
「勝つ、かも」
凛の言葉にはっと顔を上げる。
他人にどう思われようが、凛は凛で良いと思う。
凛、と呼ぶ名も、産まれたばかりの頃は何か壊れ物のように恐る恐る呼び掛けていた。
けれど、今となってはもう、凛は「凛」でしかない。
そうやって、人は自分を生きていく。
自分を確かなものにしていく。
人の前でも、恐れずに本当の自分をさらけ出せるように。
「勝つと、良いね」
「戦争なんて、やらなければ良いんだよ」
敵軍の兵にも家族がいるという、軍師の言葉を聞いて、凛は何かを感じたのだろうか、そういう風に思える強い返事だった。
この答えが、凛自身が考えて捻り出したものであるようで、千景は少し嬉しく思った。
そして、出来たっ! と喜んで、手のひらに乗せて見せたものは、オレンジ色のツルだった。
縁と縁、角と角を綺麗に合わせられないでいる不恰好なツル。
凛の手のひらに乗せてあるそれが、自分の中での平和の象徴となったと、千景は遠くで行われようとしている「戦争」の行く末に思いを馳せた。
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「ケツが痛くなってきた」
木の陰に腰掛けているシンの横で、レイが尻をもぞもぞとさせている。
それを横目でチラッと見ると、シンはまた前へと視線を戻し、ポケットを探る。
この精鋭と呼ばれる隊を束ねる部隊長の一人で、昔から悪友の関係を続けている幼馴染に小袋を投げて寄越した。
「クイの実だ、気付けにどうだ」
レイが小袋を取って投げ返すと、「こんな不味いもの、食えっかよ」
「馬鹿だな、お前。気付けなんだから、この味で良いんだよ。美味かったら、意味が無いだろう」
「やっぱここからじゃ、何も見えねえな」
森の深くに身を隠しているこの部隊からは、城の前面に軍を展開させている敵がまるで見えない。
「見えるとこに陣取ったら、向こうからも丸見えだろうが」
「馬もなあ、鳴き声が届かない距離にってなると、かなり距離あけねえとな。ここからだと、凄え走らせることになるから、時間の無駄じゃねえ?」
「だから、早めに号砲打ってくれるってんだろ。お前、ちょっと黙れよ」
シンが諌めると、レイはブツブツと言いながらも、ようやく口を噤んだ。
静かになると、途端に森の息が聞こえてくる。
鳥がピィピィと囀る声や羽ばたきの音、カヤの木だろう、枯葉が敷き詰められた地にその実がどさりと落ちる音など、この森のどこへ行っても静寂とは無縁の世界がある。
空気も美味いし、匂いも穏やかだ。
こんな戦の前で無ければ、ブラブラとどこまでも散歩して、この状況も楽しめたであろうに。
シンは隣ですっかり大人しくなったレイのことを思い出していた。
前回の戦争でのことだ。
我ら精鋭部隊が、城内に入れた敵の先鋒を叩くという作戦の時、レイが言った。
「俺ら、相当信用されてんのな」
そして、それは戦いの後になっても証明されることとなる。
シャイル王が我々の前に膝まづき、戦いを労ってくれたのだ。
この信じ難い王の行動は、誰しもの度肝を抜いた。
皆、驚きのあまり、一言も発することが出来なかった。
レイ=シン部隊の面々は、今後も王を守り抜くことをこの場で誓わざるを得なかった。
ここに王は、自分と精鋭達との信頼関係を、一瞬にして築き上げたのだ。
そして、感動に身を震わせながら深々と頭を垂れたまま、レイが声を上げて叫んだ。
この命、陛下に捧げます‼︎ 王陛下、万歳‼︎
拳を胸にぐっと当て、この正義を絵に描いたようなどこまでも真っ直ぐな男が、自分の命が尽きるまで、王を守ると言い切った。
その顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってはいたが、惚れ惚れするような男の顔だった。
俺はそこまでじゃあ無かったがな、とシンは心で呟き苦笑する。
王の言葉と態度に感動しなかった訳ではない。
レイと彼の部下は心底興奮していたけれど、シンにはそこまでか、という気持ちがあった。
その冷めた気持ちを動かしたのは、その後の王の行動だった。
軍師ダイチの亡骸を、歴代の王を祀る廟へと運び入れたと聞いたからだ。
これは宰相のユアン他、政を任せられた閣僚にかなり諌められたと聞く。
けれど、王はそれを一蹴し、自らがダイチの亡骸を抱き上げて運び入れたのだった。
シンはダイチと話をするのが好きだった。
それはまるで、彼と時々手合わせをしたチェスの盤上での戦いと同じく、激しい討論へと発展することもしばしばあったが、レイとはまた違った真っ直ぐさで考える、間違えようのないダイチのその考え方に畏敬の念を持っていた。
そんな風に心から慕っていたダイチを手厚く葬ってくれた。
シンはそれが単純に嬉しかった。
その時から、シャイル王をこの身を尽して守り抜くと心に決めていた。
「守り通せると良いがな」
シンが独りごちる。
今回の戦いも勝算が無いわけではない。
リンの策が功を奏せば、無傷でという訳にはいかないが、勝利の道は開ける。
その成功への鍵は、自分たち、この精鋭部隊が握っている。
シンは、この国で唯一冷えた脳を持つと謳われたその頭の中で、馬で駆け抜けるルートと途中やらなければならない作業を再度丁寧になぞらえると、作戦を成功させるべく、そのシュミレーションを何度も繰り返した。
そしてその数時間後、森の小鳥たちを一斉に羽ばたかせて、号砲が鳴った。
号砲がここまで早く鳴るとは思いも寄らなかったが、いつでも行けるようにと心づもりはつけていた為、スタートには躊躇は無かった。
レイが身体が震えるほどの声を上げて叫ぶ。
「レイ=シン部隊の皆に告ぐ! 俺たちは王をお守りする為の精鋭部隊だ‼︎ 命を賭して、王をお守りするのが、我らが使命‼︎」
シンの馬がレイの激励に応えるようにして前脚を蹴り上げる。
ブルルッと荒い息を散らして、その意気込みを見せているようだった。
戦いが始まるということは、無論部隊が使う馬たちにも伝わっている。
そこには何度も修羅場を共に渡ってきた、人と馬の同志のような絆があった。
シンが懐から柄の短い松明を取り出すと、火壺を使って火をつけて左手に持ち直す。
他の兵たちも同じように火をつけて準備を進めた。
「行くぞ‼︎ シン、お前は右からだ‼︎」
「そんなことは分かっている‼︎ 我がシン部隊よ、続けえ‼︎」
そして、馬の胴を蹴り上げた。
木々の間を馬が駆ける。
その蹄から、森を育んでいる粘土質の土が、そこらじゅうに跳ね上がる。
ドドッという馬が駆ける音が、この森の空気を破る。
レイ=シン部隊が森を出る手前で方向転換し、火のつけられた松明を投げては落としていく。
枯葉が良い具合に積もっている上にこのように火を落とされては、もうそれは勢いを増しながら燃えるしかなかった。
四日前に降った雨はもう乾き、枯れ草を燃やす火は乾燥気味の木々に燃え移っては、もうもうと煙を巻き上げた。
あっという間に森が火に包まれた。
もうこの煙で、何が起こったかと、敵が悟っていることだろう。
折角の美しい森が台無しだな、シンは心の中で舌打ちをすると、次には敵軍の背後に回る手はずであるレイの合図を待った。




