その日
「行ってきます」
木野林檎は家を出ると未だ靄のかかる頭に喝を入れるべく、
歩きながら鼻から冷たい空気を吸い込んだ。たちまちのうちに
鼻腔を突き刺すような刺激が襲い、彼女は堪らず顔を顰めた。
今朝はいつにも増して寒い。
スカートの下の黒タイツも気休めにしかなっていない。
二十分ほど歩いて彼女は学校に着いた。
教室には十人ほどが机にノートを広げていたり本を読んだり、
幾人かが集まって今日までの数学の課題に苦戦していたりと、
思い思いの時間を過ごしていた。
彼女もまた自分の席に座ると鞄から本を取り出して開いた。
やがて朝練を終えた運動部の面々がやって来ると、
途端に教室は更衣室さながらに騒がしさがやって来る。
しかし林檎はその喧騒が嫌いではなかった。
始業まであと五分を切った。
次々と生徒たちが教室に入り、
すでに席は一つを除いて全て埋まっていた
林檎はチラチラと眼だけを動かして時計の針を睨みながら、
時折椅子の下で小さく足を組んだり組み替えたりした。
秒針があと一週すれば彼は終わる。
あと半周……四分の一……。
「デヤァッ!」
桃介はカウント二.九で命辛々ながら切り返した。
彼が教室へ飛び込むと同時にチャイムが鳴った。
「ハイ今日の昼はお前の奢りィ!」
「おら拓海ぃ。パン買って来いよ!」
男子連中の何人かはパチパチと手を叩いて騒いだ。
桃介は嘲笑や恨み様々な野次を飛ばされながらも着席した。
「今日も寝坊?」
林檎は桃介に声をかけた。
「いやぁ……またマズった」
彼は汗だくになりながら鞄を置いてマフラーを外した。
「マフラー要らないんじゃない?朝から運動するんだから」
「え?……ああ、ナルホド。ははっ、そうか……ってなるかっ!」
「ほぉら浦島ァ!」
担任の中年教師に一喝され、彼は渋々ながら謝った。
桃介は今や教師と風紀委員の面々から問題児として
不良と同等かそれ以上に警戒されていた。
遅刻こそしていないが彼によって生徒が賭け事をするとなると、
クラスの風紀を守る側としてその存在は無視できないのだ。
彼は納得がいかないように首を捻って林檎に愚痴をこぼした。
「もう嫌になるよ。信頼もガタ落ちだ。怠け癖くらい自律してきたつもりだけど、自分の手に負えないとなると、どうしたものか……」
桃介は溜め息をついた。
この一年間は絶対に遅刻しないという、
彼の守り抜いてきたこだわりは存亡の危機に立たされていた。
「医者か保健室に行きなさいって。それか相談室でも……」
「いやいや。マズいでしょそれは」
桃介は林檎の提案を即刻はね除けた。
「こんなこと話せるの木野さんだけなんだよ」
「なにそれ。他にもいるでしょ。あなた友達多いじゃない」
しかめっ面をしながらも林檎はどこか嬉しそうな顔をした。
「だからこそだよ。こんな話、気味悪いでしょ。起きようようしても毎朝起きられませんて、ひたすらに頭抱える男なんて頭おかしいじゃないか」
「それを話される私はなんなの?友達じゃないから話せるってことね?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「ほぉら浦島ァ、木野とイチャコラしてんじゃない!」
二人は周囲の失笑を買った。
顔を真っ赤にした林檎は逃げるように本を読み続けて、
結局その日は最後まで桃介と会話することは無かった。
「行ってきます」
次の日の朝もやはり寒かった。
人肌を容易に切り裂きそうな冷気が、
唯一露出した顔面に否応なしに張り付いてくる。
しかし林檎はそんな寒さも気にならないほどに、
昨日の醜態を何度も頭の中で反芻しては後悔した。
私は何なの?私は友達じゃないってことね?
何と馬鹿ばかしい問いかけだろうか。
彼女は頭を横に強く振ってその場面を追い出そうとするが、
何度でも記憶の奥底から泡のように無数に湧いて出てくるので、
次第に抵抗するのをやめた。
特に自分から言うところが酷く馬鹿だ。
まるで恋人に失望したイタい女である。
もちろん桃介は恋人などではない。
先日、学校の階段下の陰で言い争うカップルを見かけた。
ああはなるまいと心に誓ったばかりの林檎であったが、
詰め寄るように言い放った昨日の言葉はまさにその再現であった。
始業まで三分前。
林檎が本を読みつつ教室の前の時計をチラチラと見ていると、
隣の席の女子が頬杖をついてこちらを見ているのに気付いた。
「木野さん、気になるのね」
隣に座る周防静香は持ち前の女子高生らしからぬ
早熟した大人の色気を溢れ出しながら微笑んだ。
彼女の身に纏う大人びた雰囲気は、まだ大人になり切れていない
校内の男子生徒のみならず教師も虜にしてしまっていた。
男女隔てなく気さくに話すことから両性から人気が高い一方で、
嫉妬なども多い筈なのだが彼女は気にも留めていないようだ。
「何が?」
「浦島君のこと、心配なんでしょう?」
「別にそんなことないわよ。別に」
林檎が否定すると静香は益々笑った。
「あらそうなの?いつも浦島君と話してるとき木野さん楽しそうだから、てっきり付き合ってるのかと思ってた」
「はぁ!?」
全部知ってるのよ。とでも言うような、
余裕と少しの意地悪さを含んだ彼女の表情に林檎は怯んだ。
普段は桃介と林檎の会話に入ってくることは無いのに、
二人の会話をしっかり聞いているのが静香の恐ろしさである。
「違う。絶対。絶対そんなことない」
「あ、顔が赤くなったわ」
ウフフと貴婦人のように笑った彼女に、
こうなったらと林檎が本を閉じようとしたその時、
チャイムは鳴った。
「あ……」
「あらら」
恐らく教室にいた全員の時が止まったであろう。
遂に桃介は遅刻してしまったのである。




