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あの日

 桃介は鞄を抱えて教室へとタッチダウンを決めた。

遅刻確定まで二秒前の出来事である。

始業のチャイムが鳴り終わるのを聴くと、

彼は立ち上がりズボンの埃を払って、マフラーを肩にかけ直した。

「記録更新だなぁ、浦しィ」

遠くからの声に生徒達はくすくすと笑った。

桃介は肩で息をしながらも笑顔を取り繕って彼らに応えた。

もはや浦島桃介の登校模様はクラスの名物と化していた。

彼の家は学校の向かいの、百メートルほど離れた団地にある。

通学において他の生徒よりも圧倒的に好条件であるはずだが、

彼は毎朝時間ギリギリに家を出ては猛ダッシュで登校するという、

誰がどう見ても愚行としか思えない行為をやってのけるのである。

担任が入ってくると笑い声は収まり教室は日常に戻った。

担任の男は桃介を一瞥すると、またお前か。とでも言うように、

ワザとらしく溜め息を吐いてからホームルームを始めた。

遠回しで嫌味ったらしい中年教師の説教を背中で受けつつも、

桃介の席は窓際の列の、最後から二番目に位置する

自分の椅子に腰を下ろした。

「おはよ」

後ろから小さく声を掛けられ桃介は振り返った。

「……あ、おはよう。木野さん」

息を整えつつ桃介は振り返って挨拶をした。

声をかけてきたのは後ろの席の木野林檎だ。

眼鏡の地味な女の子。それが木野林檎である。

口数が少なく表情の変化も乏しい為、

クラスの中でも存在感は比較的薄い。

桃介も初対面ではどうしたものかと戸惑った。

幼馴染だとか家が近いとか、出身中学が同じであるといった、

お互いが歩み寄るのにさしたる共通点も無く初対面のときは

打ち解けるのに時間は掛かりそうだと頭を抱えかけたものの、

話し掛けてみると意外にも気さくな彼女とすっかり気が合い、

夏前には二人は自然と話をするまでの関係になっていた。

「はぁ。もう朝から疲れが……」

桃介は大抵、休み時間は項垂(うなだ)れていた。

自分と林檎の机を肘掛け代わりにしながら窓枠に首を預けては、

彼は誰に言うでもなく、うわ言のように喋り出すのだ。

「絶対おかしい。おかしいって。オカシイヨ……」

「夜更かししただけでしょ」

林檎は授業中から引き続き文庫本に目を通しながら言った。

桃介の言う事はほとんど分かっていた。

すでに三ヶ月近く、彼の口から発せられる悩みの種は唯一。

朝、起きられない。それのみであるからだ。

「昨日は十時半に寝たよ。目覚ましも二つ。起きられないなら早く寝ろって、そりゃあ誰だってそう思うだろうね。でもねぇ」

彼女の字を追っていた目が止まった。

もったいぶるような桃介の口調に耐え兼ねて、

林檎は彼の期待通りに顔を上げた。

「……もうこの際、遅刻しても良いんじゃないの」

「いやいやいやいや」

桃介は飛び上がるように姿勢を戻して向き合った。

「そりゃ駄目だよ。僕は去年も無遅刻無欠席だったし」

はぁ。と素っ気なく、溜め息にも似た相槌を打つと、

彼女は再び手元の文章へと目を向けた。

浦島桃介は世間体を気にするほど繊細ではない。

それは朝の醜態を見れば容易に想像出来るのだが、

すると今さっきの発言も、

来年の受験のため少しでも内申点を良くしようだとか、

職員室に用紙を取りに行き、多くの大人の行き交う中で

蔑みの視線を浴びながら遅刻理由を書きたくない、

といった自己保身のためなどではなく、

単純にそれが当たり前だと頑として思っているからである。

「去年もそうだったなら、もちろん今年だって狙いたいじゃないか」

時折フッと湧いて出る、端から見れば何とも阿保らしい、

拘(こだわ)りと言うのもおこがましい彼の自論には、

林檎は彼と出会って半年の後、すでに辟易としていた。

「もう母さんにも頼まないとかもなぁ。でも高校生にもなって親に起こされるって結構恥ずかしい気がしなくも無いんだよな」

「……私も、布団から抜け出せないときはある」

林檎は顔を上げずに言った。

「寒い朝なんて特にそうよ」

「そういう時はどうするの?」

「目覚まし時計をわざと離れた所に置いとくの。自分を布団から這い出させるために」

へぇ。と桃介は感心の声を上げた。

「木野さん、布団派なんだね」

林檎は本を閉じると糊付けされた本の背の端で彼の眉間を叩いた。

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