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3/3

この日

一時限目が終わり休み時間に入った頃、桃介は教室に顔を出した。

彼はひどくやつれた様子でトボトボとすり足で歩き、

自分の席の前まで来ると老人のように腰を下ろした。

いつもの息急き切った印象からかけ離れすぎていたために、

いつものように話し掛けようとした林檎は戸惑った。

クラスのメンバーも彼女と同様のようで、

横目で遠巻きにみるなどして近付けずにいる。

それを察したのか桃介は自ら口を開いた。

「……やっちゃったなぁ」

ヘラヘラと肩を揺らす彼の表情に、真の笑顔は見られなかった。

「ねぇ、大丈夫?」

林檎が言うと桃介はひどく困った顔をした。

「参ったなぁ。やっぱ病気なのかな。なんか怖くなってきちゃった」

「今日も起きられなかったのね?」

「うん……でも今日は変だった。体が動かなかったんだ」

「分かった。保健室に行きましょう。付き添うから」

林檎は桃介の腕を掴んで立ち上がらせた。

教室を出て行く際、用を済ませただろう周防静香と鉢合わせた。

目を見張ったのは一瞬で、すぐに意味深な微笑みを二人に向けた。

「言っとくけど、これは違いますからね」

「ふふふ」

二人は保健室へ行き養護教諭の先生に説明したのだが、

逆にこっぴどく叱られた。

「そんな言い訳聞いたことないわ。ちょっとは早起きして学校来なさい」

「でも起きようとしても起きられないんです」

「意志が足らないのよ。運動部の子たち、毎朝早くから学校の周りをマラソンしてるのよ。それに比べてあなたは……」

先生は四十代と二十代の女性コンビである。

普段は暖房を入れた保健室でコーヒーを片手に

ゆったり談笑をしている彼女達であるが、

若い保健医こそ心配の眼差しを向けてくれたものの、

中年の方は根性だ気合だという精神論で桃介を完全否定した。

「でも睡眠障害とか、何かの病気かも知れないんですよ」

林檎も出来るだけ彼をフォローも虚しく、むしろそれすら

気に入らないようで、中年の保健医は彼女の話を中断させる。

「いい?あんた達みたいに世の中甘く見てるのはねぇ、どこ行っても何やっても上手くいかないのよ」

彼女は聴くに耐えない説法を一通り終えると、

自分が満足したのか手をシッシッと振ってみせた。

「ゴメンね。鹿島先生、最近上手くいってないのよ」

別れ際、若い保健医は二人に声を潜めてそう告げ、

引き戸を音を立てないようにゆっくりと閉めた。

廊下に出された桃介と林檎は揃ってため息をついた。

「……鹿島が居るのを確認した時点で引き返すべきだったんだ。木野さん知らないの?」

「何が?」

「鹿島だよ。運動部の筋肉が見たいからって理由で保健室の先生になった奴」

「噂だけで決め付けるのは良くないわ」

「まさか。自分からそう言ってたんだよ。身体測定の時、目ぇギンギラギンにしてさ。僕が水泳部だったら今頃は懇切丁寧に相談に乗ってくれただろうね。サービスでハグぐらいあったかもな!いい歳して色気付くなババア!」

よほど腹が立てたのか桃介は怒りの形相で捲し立てた。

「ち、ちょっと。落ち着きなさいって」

保健室から慌ただしい物音がしたの聞いて、

二人は目配せして颯爽とその場から駆け出した。

すぐに鹿島のヒステリックな叫び声が廊下に反響した。

 放課後、二人は下駄箱の前にいた。

帰ろうとしていた桃介を林檎が呼び止めたのだ。

「明日はどうするの?」

「そりゃあもう、今度こそ気を狂ってみせるよ」

桃介は戯けてみせたが、すぐに頭を掻いて苦笑いをした。

「……無遅刻が達成できなかったのはこの際もう良いんだ。精神を病むのは一番ヤバいって」

彼は上履きを脱いで下足箱に入れ、靴を取り出した。

「特別ストレスが溜まってる訳でもないし、起きられなくなったのは秋頃からだし。正直言って何が原因か分からないからどうしようもないんだ」

林檎も上履きを脱いで下足箱からローファーを取り出した。

「じゃあどうするの?」

「まぁシーツでも変えてみるかな」

「……あのね、私に考えがあるの」

林檎は鞄からルーズリーフを取り出した。

束から紙を一枚取り出すと桃介に渡した。

「あ、それ折らないで。効果無くなっちゃうから」

桃介は不思議に思い、裏返しに渡された紙を見た。

コンパスで描かれた円の中に数字やアルファベットのような、

梵字にも似た奇妙な記号が綺麗に縁に沿って並んでいる。

「何これ。もしかして木野さん、黒魔導師?」

「違うわよ」

林檎はしきりに周囲を気にしていた。

「ちょっと、それ早くしまって」

「え?……ああ、うん」

誰もいない昇降口で二人きり。

その空間に気付いた桃介は受け取った紙を

世界史の硬いファイルに挟んで折り目がつかないよう

慎重に鞄にしまった。

「本に載ってたからその真似事よ。寝るときソレを枕の下に入れて。でも絶対に折らないように」

「僕、抱き枕なんだけど」

「そんなもの工夫しなさい」

二人はいっしょに校舎を出て校門まで歩いた。

グラウンドの方ではサッカー部が練習試合をしているのか、

男子の野太い叫び声が飛び交っていた。

「言っておくけど、それは御守りみたいな物だから。それが駄目なら、とうとう病院ね」

「うん。でも不思議と大丈夫な気がする。でも木野さんもこういうの信じるんだ」

それを聞くと林檎は突き刺すように桃介の顔へ指を突き付けた。

「言っとくけど私はどこかの信者でもなんでもないから。コレも勧誘じゃないし。誤解しないでよ」

「え。うん。分かってるけど」

「なら良いのよ」

二人は其々の家路に着いた。


その夜、桃介は抱き枕の代わりにバスタオルを

何回か折り畳んで厚くしたものを頭の下に敷いて寝た。

もちそんその下には林檎から貰った紙を入れてある。

目を瞑って最初は物足りなさを感じたが、しばらくすると

徐々にまったりとした気怠さがやってきた。

不安ながらも桃介はその感覚に身を任せるとやがて意識を失った。


再び目を覚ますとカーテンの隙間から光が漏れていた。

枕元の目覚し時計を見ると七時きっかりを指している。

あれ……起きられたぞ。

桃介はさっきまで寝ていたことも忘れてしまうくらいに、

意識が鮮明としていた。

普段は無理矢理こじ開ける(まぶた)も驚くほど軽い。

これが御守りの効果か。木野さん、才能あるのかも知れない。

タオルの下の紙を確認しようとした桃介は違和感に気付いた。

身動きがとれない。掛け布団がいつもより重たい。

力を入れて内側から持ち上げると、バリバリバリッと荒々しい、

柔らかい羽毛布団らしからぬ奇怪な音がした。

掛け布団は持ち上げた位置でそのままピタリと止まった。

なんだコリャ。凍ってる。

部屋を見渡すとカーペットやカーテン、カーテンレール、

テレビや箪笥に真っ白な霜がビッシリと付着しており、

桃介が組み立て天井に吊り下げていたYF-19は綿菓子になっていた。

ジャリ……と音のするカーペットに足をつけた彼は、

何をするでもなく、只々呆然とするのみであった。

冷凍庫と化した彼の部屋だが、何故だか寒さは感じられない。

これは夢なのか。そうよ夢よ。

驚き振り返った桃介の目の前には椅子に脚を組んで腰掛け、

勉強机に頬杖をつく制服姿の林檎の姿であった。

あれ、木野さん。どうしてここに。

彼女は黒タイツの脚を扇情的に組みかえると、机の上の

スタンドライトに生えた細い氷柱(つらら)を指先で軽く折った。

ここは夢の中。つまり貴方はまだ眠っているのよ。

そんな。起きたと思ったのに。じゃあ早く起きないと。

桃介はベッドの上の目覚まし時計を手に取った。

しかし針は七時きっかりを差したまま止まっていた。

更に猛烈な勢いで時計全体が霜に覆われてしまい、

慌てて手放すと時計は床に落ちて砕け散り氷の破片となった。

無駄よ。(ココ)では時間なんて概念は無意味なの。

じゃあ、どうすればいいの。早くしないとまた遅刻だよ。

落ち着いて。まだ慌てるような時間じゃないわ。

林檎は立ち上がると桃介の後ろにある部屋のドアへと近づき、

ドアノブを両手で握るとフンと一息、力ずくで回した。

粉雪を被りながらも固まった扉をこじ開ける姿は圧巻であった。

うわ、すごい握力。そんなのいいから。

廊下に出ると、そこはツンドラの如く冷たい風が吹き荒び、

ありとあらゆる場所が氷と霜によって埋め尽くされていた。

うわぁ、父さん母さんの部屋はもうダメだ。あっ玄関も。

リビングへ出ると雪原が広がる。しかし異様だったのは、

L字型のソファのある場所に立つ、見覚えのない少年である。

饅頭笠を被り紺色の外套を纏う、時代劇のような風貌の少年は、

その幼い顔からは想像もつかないほど鋭い眼光を二人に向けている。

あれは誰。恐らくはアレがあなたの寝坊の原因ね。

木野さん、あの子知ってるの。いいえ。

突然、閉ざされた空間に猛烈な吹雪が吹き荒れた。

天井からみるみるうちに氷柱が生えて剣山のようにそびえ立った。

うわわ。どうすんのこれ。落ち着いて、ここは夢の中だから。

そうは言うが巨大な氷柱の存在感に二人は圧倒されるばかりである。

更に氷柱の成長は止まることを知らず、遂には尖った氷の先端が

次々と重力と共に速度をつけて床を穿ち始めた。うわ、危なっ。

林檎と桃介はセミオープンの対面式キッチンの陰へと逃げた。

カウンターを挟んで世界が二分された。

しかしそれも徐々に氷に支配されつつある。

アイツは何者なんだ。さあ、詳しくは何とも。

でも、あの子の所為で貴方の意識は凍らされてしまったようね。

寒い日の車のエンジンのように。時間の感覚さえ忘れてしまうほど。

貴方の外側ではなく内側を。理性の働かない睡眠中は特にそう。

ねぇ、秋頃から夢を見てないでしょう。

……言われてみれば確かに。

横になってから覚醒する迄の記憶が桃介には無い。

というより、目覚めてからの全力疾走で彼は

夢がどうであったとか、それどころの話ではなかった。

多分このままだと貴方、完全に意識を凍結させられたなら、

ずっと眠ったまま、最悪ひたすら一生、目を覚まさないのかもね。

それってもはや死んだも同然じゃないか。

まだ女の子と付き合った事もないのに。桃介は頭を抱えた。

……その前に、意識に棲みついたあの子を何とかして追い出すのよ。

なるほどね。桃介は頷いた。で、どうするの。

二人の間に漂う沈黙した空気が冷気によって凍りついた。

痛ッ。桃介は床を走る棘のような氷で手を切った。

キッチンの縁から林檎が顔を出すと少年はこちらを見ていた。

相変わらずの鋭い目付きに桃介は腹を立てた。

北風小僧め。さっさと帰れっ。

彼はシンクに積もった雪を掴んで丸め少年へ投げつけた。

雪玉は手を離れた瞬間、凍結し水晶玉のような輝きを放ちながらも、

少年に届く直前に空中でキラキラと砕け散った。

ダメね。所詮はあの子が創り出した雪。思うがままみたい。

桃介はガスコンロを点火させようとしたが、

つまみが凍って回らない。火だ。とにかく火だ。

冷気属性には火が弱いってのが大体のセオリーだ。

桃介は食器棚の下の方にある小物入れを無理やり引き出し、

中からマッチを取り出した。二本三本と摘んで、

それらを一度に擦ったのだが、先端から(ほとばし)ったのは

真っ赤な火ではなく、限りなく透明に近い青の結晶であった。

ひえっ。なんだこれ。どうなってるんだ。

狼狽える桃介は隣にしゃがむ林檎と目が合った。

浦島君、ここは貴方の夢の中。貴方の世界なの。

貴方の想像力がそのまま創造力に繋がるはずよ。

想い描いて、創り出すの。何を。なんでも良いから、早く。

桃介は言われた通りに頭に思い浮かべた。

すると部屋中の窓ガラスが吹き飛び部屋が大きく揺れた。

太陽の光が一瞬部屋を明るく照らして、また消える。

林檎はこの部屋が回っているのだとそこで理解した。

更に部屋は数千メートル上空を落下していた。

どうしてこうなるのよ。何でも良いって言ったじゃないか。

桃介は彼女の手を取ってキッチン横の小窓から飛んだ。

あっという間に二人は雲一つない青い空に放り投げられた。

すぐ横をマンションが轟音と共に風を裂き、建物中の氷や霜を

吐き出して日光を反射させながら空に舞っていた。

見て、追ってきてる。えっ。

二人の目の先、マンションの頂点に少年が立っていた。

彼は外套をたなびかせたまま懐に手を添えると、

そこから一本の刀を抜いた。

やっぱり北風小僧じゃないのか。それとも冬将軍か。

いずれにせよ人の意識すら凍りつかせる絶対的な冬の化身だ。

桃介達は柔らかいベッドの上に落ちた。

ここはどこ。僕の部屋だ。戻ってどうするのよ。

部屋を出ようと桃介が扉を開けると少年がいた。うわっと。

刀の一閃をマグレで避けた彼は口から火炎を噴いた。

灼熱の光が煌々と部屋を照らす。少年は部屋を飛び出した。

逃がすか。ドラゴンと化した桃介は壁を破って彼を追う。

前足がないのでワイバーンか。そんなのどうでもいいわよ。

硬い鱗の生えた彼の背中に乗る林檎は弓を射る。

それを刀で弾くと、少年は二人を氷の世界へ飛ばした。

周囲は波打つ海がそのまま凍ったような有様である。

ここはどこだ。南極。それとも北極か。

イヌイットの着るような毛皮の防寒着を纏い、

二人は背中合わせになってライフルを構えた。

ふと耳をすませば、リンリンリンと遠くで音がする。

これは目覚まし時計の音。『外』じゃもう起きる時間だ。

早くここから抜け出さないと。また今日も遅刻だ。

あの子をどうにかしない限りは目覚められないわ。

生物の存在し得ない白銀の世界に二人きりである。

木野さんと二人きりかぁ。こら、やめて。声に出てるから。

足下の氷の下を影がよぎったのをお互い見逃さなかった。

地面がズンと揺れたときには飛び退いていた。

間髪入れず巨大な顎が氷を砕き、氷塊を呑み込んだ。

上空へ舞い上がったのは鯨だった。

あれはホッキョククジラだ。じゃあここは北極か。

鯨は(ヒレ)を動かして遊泳するように空を飛び、

桃介を見つけた途端に大きな口を開けて急降下してきた。

二人はライフルを構えて引き金を引いた。

弾丸が口内に着弾すると鯨の体は急激に膨張し、

硬い氷山の頂に腹を擦らせ爆音を轟かせながら破裂した。

凄まじい爆風に林檎は周囲の流氷ごと吹き飛ばされた。

きゃあっ。木野さん。桃介も後を追う。

二人はひたすらに長く大きいコンクリートの筒の中を落下していた。

並行して落ちる流氷を押しのけ桃介は林檎へと近付く。

あっ。視界の端に少年がいた。流氷の陰に潜んでいた。

刀を持っている。両手で構え、氷を蹴ってこちらに跳んだ。

上から下への流れるような斬撃は桃介の腕を右肘から断った。

畜生。桃介はお返しにと口から火を噴きつける。

少年の外套は瞬く間に燃え上がり彼は火達磨となった。

浦島君。振り返った先では林檎が巨大な圧力鍋を抱えていた。

桃介は残る左腕で少年の外套を掴むと彼女に向かって投げた。

少年が鍋に入ると蓋が閉められ上から留め金が施された。

ガンゴンガンゴンと内部で少年が暴れている。

林檎は鍋を自分の後方、落下する方向へ手放した。

そして桃介の差し出した手を取り、二人は背中に装備した

ジェットパックで吹き抜けの塔を青空目指して飛び上がった。

すれ違いに電車三輌ほどのミサイルが地面に向かって行く。

噴射した煙で螺旋を描きながら塔を抜けると、

間髪入れずに塔の頂上から爆炎が昇った。

桃介はそこが発電所に併設された冷却塔であることに気付いた。

きっと先週に観た映画の影響だろうか。

人間のエゴの滲み出る悪夢のスリーマイル島。

これであの子も懲りたかしら。さぁ。どうだろうね。

二人は音を立てて根元から崩れる冷却塔を空から眺めていた。

巻き上がった土煙は凍結し瓦礫と共に巨大オブジェとなった。


クラスでどよめきが起きた。

桃介が、しれっと教室へ入ってきたのだ。

時計の針は八時丁度。全員が時計の故障を疑った。

幾人かは拍手で彼を迎えた。口元を押さえる者もいた。

「どどど、どうした浦しィ。いや、お前、浦島か?」

「当たり前だろ?」

桃介は自分の席に座り、後ろを振り返った。

「おはよ」

「おはよう、木野さん」

二人が目を合わせて笑うのを尻目に静香は微笑みを浮かべた。

今朝は記録的な暖冬だという。

恐らくはもう彼が遅刻することはない。

奥底に沈む鍋の蓋が開かない限りは。

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