第一章:身投げの女
「あ、貴方は誰なんですか?」
「俺はサタンだ。天界から迷える子羊を救う救世主になるために地上にやってきた。」
「サタン……? 天界から……? 救世主?」
私の脳内で、その3つの単語が大渋滞を起こしていた。
悪魔の代名詞であるはずのサタンが天界の所属というのも意味がわからないし、ましてや迷える子羊を救う救世主を名乗るなんて、私が知る悪魔像とぜんぜん違う。身投げ寸前の極限状態が生み出した、あまりにもタチの悪い幻聴に違いない。この強烈な謎を前にして、ブラック企業での理不尽な上司の罵倒で限界まで擦り切れていた私の精神ですら、身投げの衝動をどこかへ置き忘れてしまったらしい。
そう結論づけて目を閉じようとした私の鼓膜を、再び能天気な声が揺らした。
「とにかく、お前は今、見えない壁にぶつかって人生のどん底ってやつだろ? だからこそ、俺みたいな特別派遣の救世主(自称)の声が、こうして届いたってわけだ。もっと感動してくれてもいいんだぜ?」
恩着せがましく胸を張るような声色に、私の緊張の糸は完全にぷつんと切れてしまった。得体の知れない存在への恐怖よりも、理不尽な状況への呆れが勝る。
私は深く息を吸い込み、頭の斜め上あたりに向かって、半ばヤケクソ気味に聞いてみた。
「……それで、そのサタンさんは、私に何をさせるつもりなんですか? 契約の代償に魂を売れ、とか言うなら絶対にお断りですよ。そもそも、今の私には悪魔に買い取ってもらうほどの価値がある魂なんて残っていませんから」
自暴自棄な私の言葉に、サタンは「ぷっ」と吹き出した後、腹を抱えて笑うような大声を響かせた。
「あっはっは! 魂の買い取りなんてやってねえよ! 俺が求めてるのはそんな重苦しいモンじゃねえ。人類、いやまずはお前の救済」
頭の回転が追いついていない私に、さらに続けてサタンとやらは言う。
「あえて契約風に言えば……俺が欲しいのは、お前の人生のプロデュース権だ。どん底からトップスピードで這い上がる、極上のエンタメを俺に見せてくれよ。俺が直々に、お前を幸せにして、しっかり天国に行けるように仕立て上げてやるからさ。どうだ、悪くない取引だろ?」
さっきから本気で言っているの?ふざけるのもいい加減に……とそう思った矢先
突如として、冷たい風がふわりと形を結ぶ。黒い羽のようなものが空中から現れ、黒く私の眼の前を覆った。
振り返った私の視界に飛び込んできた姿に、私は思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、恐ろしい化け物ではなかった。
隙ひとつなくシャキッとした漆黒のスーツを着こなす、息が止まるほど美しい男だった。
流行りの長めの前髪の奥から、傲慢さと絶対的な自信に満ち溢れた双眸が私を見下ろしている。どこかチャラチャラとした軽薄さを纏いながらも、抗いがたい危険な色気が全身から匂い立っていた。頭には角が生えており、群れから外れた、しかし誰よりも気高く美しい「黒羊」——そんな言葉が脳裏をよぎる。
理性が「この存在は危険だ」と激しく警鐘を鳴らしているのに、女としての本能が思わず惹きつけられてしまうような、圧倒的で暴力的なまでのビジュアルだった。
「お、お前、俺が認知できたみたいだな。苦労したぜ。そういう人間があんまりいなくてよ。全く、地上の連中はどいつもこいつも鈍感だからな」
サタンと名乗ったその男は、私の怯えなど気にも留めず、ひどく退屈そうに長い指先で前髪を払った。
彼から放たれるのは、神聖さとは真逆の強烈なエゴイズム。しかし彼自身は、本気で「自分こそが天界で選ばれるべきだった真の救世主である」と信じ切っている。だからこそ、その振る舞いには一切の悪気も罪悪感もないのだ。
「救世主、って……。じゃあ、どうして私なんかを……?」
震える声で尋ねると、サタンはふっと鼻で笑い、躊躇なく私のパーソナルスペースへと踏み込んできた。
有無を言わさぬ強引な動作で、長い指先が私の顎をクイッと持ち上げる。
「っ……!」
至近距離で交わる視線。ふわりと香る、甘く危険な匂いに心臓が大きく跳ねた。
「どうして、だと? 決まってんだろ。飛び込み自殺する勇気もねえくせに、この世の終わりみたいな顔して絶望ぶってる哀れな女。救済するならそれくらいのやつのほうが面白いだろ。この俺様が、仕方なく付き合ってやろうって言ってんだよ」
見下ろす瞳はどこまでも傲慢で、私が彼にすがることを微塵も疑っていない。
「神様は『選択の自由』なんて面倒なモン尊重したいようだが、俺に言わせりゃそんなモンがあるから、お前みたいに思い詰めて失敗するヤツが出るんだ。だから俺が、お前の人生を一から十まで全部コントロールして、確実に救済してやる。光栄に思えよ?」
それは、神が重んじた自己犠牲と自由意志の対極にある、完全なる支配という名の「救済」。
明らかに間違っているはずなのに。
限界まで擦り切れ、何もかも自分で決断することに疲れ果てていた私の心は、彼の放つ迷いのない傲慢な言葉に、なぜか奇妙な安堵と甘い痺れを覚え始めていた――。




