第二章:傲慢な悪魔が説く「神の子」
ガチャリと鍵を閉める音が、静まり返った狭いワンルームに虚しく響いた。
「とりあえず、びっくりして飛び込むのはやめちゃいましたけど……」
私は玄関の壁に背中を預け、ずるずると床に座り込んだ。
目の前には、私の安っぽい折りたたみベッドにドカッと腰を下ろし、長い脚を組んでいる漆黒のスーツ姿の男――自称「サタン」。薄暗い部屋の中でも、彼の放つ圧倒的な美貌と危険なオーラは隠しようがなく、この日常空間にはひどく不釣り合いだった。
「私、今、生きていても楽しいことなんて何一つないんです。仕事は毎日ダメダメで怒られてばかりだし……こんな私、正直、生きてても意味がないんですよ」
ぽつりとこぼれ落ちたのは、すっかり冷え切ってしまった本音だった。
それを聞いたサタンは、形の良い眉を顰め、心底呆れたように深大な溜息を吐いた。
「はあ……。今って、地上にはこういう考えのヤツばっかりなわけ? そりゃ、自殺者も大勢いるわな」
彼は長い前髪を鬱陶しそうに掻き上げ、鋭い三白眼で私を見下ろした。
「あのな、俺は優しいから特別に教えておいてやるけど。お前らは『神の子』なんだよ。わかるか? 神様の子供で、平等に愛されてるっていう意味だ。そういう愛を感じることも気づくこともできずに、主観だけで勝手に破滅に向かってるヤツ、本当に多いんだよね」
「神の……子?」
突拍子もない言葉に、私は首を傾げた。教会なんて行ったこともないし、そんなことを言われても全くピンとこない。
「そんなこと言われたって、わかりませんよ……。私、自分に価値があるなんて、少しも思えませんから」
私が自嘲気味に俯くと、サタンは「あーあ」と天井を仰いだ。
「ああもう、ウジウジしててめんどくせえヤツだな! じゃあ、お前みたいな鈍感な頭でもわかるように説明してやるよ」
彼はベッドから立ち上がり、床に座り込む私の目の前まで歩み寄ると、しゃがみ込んで私と視線を合わせた。至近距離に迫る端正な顔立ちと、ふわりと香る甘い香水のような匂いに、思わず肩がビクッと跳ねる。
「お前、家族や、大切な友人はいるか? そいつのこと、大事か?」
「……はい。そうですね、大事です」
「じゃあ、そいつらがもし、今のお前みたいに『私なんて生きてる意味がない』って毎日超ウジウジしてたら、どうすんだよ?」
サタンは私の目を真っ直ぐに射抜いたまま、低く響く声で畳み掛けた。
「ちょっとムカつくだろ? なんでこんないいヤツなのに、こんなに頑張ってるヤツなのに、そんなに悲観的なんだろうって、腹立たしくならないか? ――今の、お前がそれだよ」
心臓を、鋭いナイフでサクッと真っ二つにされたような衝撃だった。
(あ……そっか)
私を大切に思ってくれている田舎の両親や、たまに連絡をくれる友人。もし彼女たちが今の私と同じように自分をゴミのように扱っていたら、私はきっと悲しくて、「そんなことないよ!」と怒りすら覚えるだろう。
「……じゃあ、ちょっと、悲観的すぎるっていうか、ウジウジするのは、本当にダメですね。なんだか申し訳なくなってきました。……もう、やめます」
ポツリと呟くと、私の中でガチガチに凍りついていた何かが、少しだけ溶けていくのが分かった。不思議だ。悪魔の代名詞である彼に怒られたことで、見失っていた当たり前のことに気づかされたのだ。
「それで……その『神の子で愛されてる』っていうのは、まだよくわからないんですけど」
私が恐る恐る尋ねると、サタンは少しだけ表情を和らげ、ひどく魅力的な、けれどどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「うーん……例えば、お前のその大切な友人とか、もし仮にお前に子供がいたとしたら、そいつらには元気に、楽しいこといっぱいして、健やかに過ごしてほしいと思うだろ?」
「はい。絶対にそう思います」
「それと全く同じことを、神様は、お前ら人間全員に対して思っているわけ。お前らに幸せになってほしい、楽しいことを経験してほしいってな。それが『神の子』っていうことだ。」
天界の秘密を語る彼の言葉は、乱暴で傲慢な響きを含みながらも、絶対的な真理として私の胸の奥にストンと落ちてきた。
私に生きる意味がないなんてことはない。ただ、心が疲れすぎて、見えなくなっていただけなのだ。
窓の外では、いつの間にか始発の電車が走る微かな音が聞こえ始めていた。最悪な夜の終わりに現れたこの不遜で美しい悪魔は、乱暴な手つきで、私を絶望の淵から引きずり上げてしまったらしい。
「ってわけだから、俺はまどろっこしいやり方じゃなくて、直接お前らの願いを叶えて幸せにしてやろうとしてる。さあ、願いを言えよ」
サタン様はそう言って目を細めて笑った。
「えっ……!?」
あまりにも突然な悪魔の誘惑に、心臓が大きく跳ね打つのを感じた。
慈愛とも企みのある不敵な笑みとも受け取れる、彼の微笑は不気味な色気を漂わせていた。




