プロローグ 天上の評議と堕天
現代――混迷を極める地上を前に、神は深い溜息を吐いていた。
溢れかえる欲望、絶えない争い、迷い傷つく人間たち。神は彼らを救うべく、一人の「救世主」を地上へ遣わすために天上の評議を開いた。
呼び出しに応じ、神の御前に姿を現したのは二人。
清廉な光を纏う男、イエス・キリスト。
そして、神の傍らに仕えるナンバーツーであり、天界で最も美しく優秀な大天使――純白の聖衣を纏ったルシファーであった。
「……さて、二人よ。お前たちはどのようにして、あの哀れな地上の人々を救済するつもりか?」
荘厳な問いかけに対し、真っ先に一歩前へ出たのはルシファーだった。
その立ち振る舞いは極めて洗練されており、神に対する姿勢も完璧な好青年そのものだった。
しかし、その爽やかな笑みの奥には「自分が選ばれて当然であり、この私が提示する方法こそが一番いいに決まっている」という揺るぎない自負と誇りが透けて見えていた。
「神よ。人間の救済は、この私ルシファーにお任せください」
ルシファーは自信に満ちた瞳で、朗々と自説を語り始めた。
「私にあなたの権能と力をすべてお預けください。人間たちが悪い行いを一切できないよう、私がその一挙手一投足を完璧にコントロールいたします。私の絶対的な管理下におけば、誰も間違いを犯さず、誰も傷つかず、全員が確実に天国へと辿り着くことができます。私が全権を握ることこそが、最も確実で完璧な救済計画です」
自分は絶対に間違っていない――そう信じて疑わない完璧なエリートとしての提案。
しかし、神の表情は固く、失望に満ちていた。
「なるほど、それがお前の考えなのだな。では、イエスよ。そなたならどうする。」
静けさを讃えたイエス・キリストは膝をつき、真摯な瞳で言葉を紡ぐ。
「私が完璧な人間として地上に降り立ちます。何一つ罪を犯さず、すべての人々に対して模範を示しましょう。そして……全人類の罪をこの身に受け、過去から未来永劫に渡り、私が代わりに罰を受けます。人々には自ら選択し、成長する機会を。私は私という存在を差し出し、全人類を救います」
命すら惜しまぬ自己犠牲と、人間の自由意志を尊重する覚悟。神は深く頷いた。
「選択の自由、成長する機会、失敗する権利――私はそういったものを大事にし、我が子である人々を見守りたいのだ。全てを縛り、罪を犯す自由すら奪うことは救済ではない。ゆえに、イエス・キリストよ。お前が地上へ行け。お前には肉体を与えよう」
キリストが深く頭を下げる一方で、ルシファーの顔から笑みが完全に消え去った。
「そういうことだ……ルシファーよ。お前は我が天界で最も優秀な天使だと思っていたが、私は誤解をしていたようだ」
「私が間違っているとおっしゃるのですか!? 私はただ、愛ゆえにこの方法を取るだけなのです!誰も傷つかずに全員幸せになるために!人間などという身勝手な生き物はどうせ間違いを犯し、神のご意思を理解するのに時間がかかりすぎます!そればかりか……」
神は制するように手を上げ、割って入って告げた。
「もうよい。お前のその考えが傲慢であるとわからぬか。成長の機会を奪うことは救済とは呼べぬ。
お前は人間を身勝手と言ったな。だが、思い上がっているのはどちらだ?他者を意のままに操ろうとする危険な考え。強いてはそれを救いだと考え、支配しようとする者に、天使の資格はない。
お前からは天使の称号を剥奪する。これからは好きに生きるがいい。お前の言う『身勝手』にな。」
その言葉には落胆や静かなる怒りが込められていた。
神に見放され、天界を追放されたルシファー。
その胸中に渦巻いたのは、強烈な屈辱感と激しい怒りだった。
「分かってないのは神様の方だ……! 俺こそが真の救い主だってことを、証明してやる」
彼は神への反逆を誓った。自分のやり方が正しいと見せつける。今までのエリート他の天使から見れば、彼は完璧に闇へと降った。しかし、どれほど闇に染まろうとも、彼の精神は誇り高き「大天使ルシファー」のままであり、自分こそが人類を導く「真の救世主」であった。
神への激怒と心の奥底に芽生えた深遠な傲慢さは、彼の姿をも変貌させた。
かつて美しかった白の聖衣は漆黒の闇に染まり、長めの前髪の奥に光る瞳には危険な色気が宿り、全身から圧倒的な独特なオーラを放つようになった。
「よし……肉体がねえなら、人間にささやきかけて直接コントロールしてやる。俺様が本物の救済ってやつを見せてやるよ」
こうしてルシファーはキリストの後を追い、地上へと降り立ったのだった――。
程なくして彼は「魔王サタン」と呼ばれるようになる。
――。
ざわめきと無機質なアナウンスが交差する、夜の東京。終電間際の駅のホームで、私はただ一人、まとわりつくような風に吹かれて立ち尽くしていた。
「生きていても、何一つ楽しいことなんてない……」
ヒールの擦り減ったパンプスを見つめながらポツリとこぼした言葉は、誰の耳にも届くことなく都会の喧騒に吸い込まれていく。連日の深夜に及ぶサービス残業、化粧を落とす気力もなく泥のように眠り、また絶望の朝を迎える日々。理不尽な理由で怒鳴り散らす上司の怒声と、息を吸うようにねちねちと嫌味を繰り返すお局の冷たい視線。ブラック企業という名の逃げ場のない檻の中で、私の心と体はとうの昔に限界を迎えていた。
もう、疲れた。いっそこのまま、あそこを走る冷たい鉄の塊に飛び込んでしまえば、この終わりのない苦行から解放されるのだろうか。
ぼんやりと迫りくるヘッドライトの眩しい光を見つめていると、不意に背筋を這い上がるような、ひやりとした悍ましい気配を感じた。
——まただ。
私には、幼い頃からほんの少しだけ「視える」体質があった。お盆の時期になれば、優しくて大好きだった亡きおばあちゃんがニコニコと帰ってきているのが分かったし、その温かい気配は、孤独な私にとって密かな心の救いでもあった。
けれど、都合よく良いものばかりが視えるわけではない。暗い夜道で背後から迫るドロドロとした嫌な悪意や、その場所に縛り付けられ「居着いてしまっている」得体の知れない地縛霊たち。ただでさえ現実の世界で息をするのも苦しいのに、見えない世界のノイズまで拾ってしまうこの過敏な体質に、私はずっと難儀し、静かに絶望してきたのだ。
「おばあちゃん……私、もう頑張れないよ」
黄色い点字ブロックの突起が、足の裏にひどく硬く感じられる。ホームに滑り込んでくる電車の轟音が、私の中のわずかに残った理性を真っ黒に塗りつぶしていく。
ふらりと、吸い寄せられるようにつま先が白線の外側へと動いた。
冷たい風が前髪を激しく揺らした、その刹那だった——。
「おい、待て」
私はその声に驚いて身を引いた。身投げ寸前のところでその声に助けられてしまった。
今の声はなんなんだろう。あたりを見回しても、すぐ周りに人は居らず、私に声をかけたらしい人は見当たらなかった。
ストレスで頭がおかしくなったのかも……?と考えているとさらに声が聞こえた。
「おお、お前俺が認知できるんだな。 そういう人間があんまりいなくて苦労した。全く鈍感だ」
人の姿が見えないのに、声がする。わけがわからず、女は尋ねた。
「あ、貴方は誰なんですか?」
「俺はサタンだ。天界から迷える子羊を救う救世主になるために地上にやってきた。」
「サタン……? 天界から……? 救世主?」
私の脳内で、その3つの単語が大渋滞を起こしていた。




