第45話 逃走
「師長さん? 何の御用で?」
「あら、あなた看護師長? 師長がわざわざ患者のところに来るなんて余程のことがあったのかしら?」
「こ、この手を離しなさい! 院内での暴力行為は許されません!」
「あらあら。院内での殺害は許されるのに?」
「な、何を根拠に!」
西園寺蓮は異常事態だと瞬時に判断し、手元にあるナースコールを鳴らした。すると、看護師がパタパタと音を立てて病室へ来る。看護師は状況を処理しきれない様子で、西園寺蓮のベッド周りを凝視している。
「し、師長……? これは、一体」
「丁度いいところに! 暴力を振るわれていたのよ! 助けて!」
「本当に丁度いいわね。西園寺蓮に追加薬剤のオーダーは出ている? 調べて頂戴」
「あ、あんた! 何の権限があって看護師に指示し――」
千歳蘭はついに師長の両手首を片手でまとめて掴み、床頭台に押しつけた。空いた手で背中のポーチを探り、ギラリと光るメスを取り出す。そして、師長の頬にメス刃を這わす。
……師長の抵抗は弱い。体温、心拍数、呼吸数はいずれも上昇している。動作にも機械特有の規則性は見られない。人間と考えてよさそうだ。
私が分析を進めていると、千歳蘭の低い声が病室に落ちた。
「私は医者よ? 医者だから看護師に指示を出していいわよね?」
「痛ッ!! ちょっと!! 突っ立ってないで助けなさ――」
「ええからはよ調べてこい言うとるやろがァッ!! 何をボサッと突っ立っとんねん!! さっさと走れッ!!」
「は、はいいいい!!」
ナースコールで呼ばれた看護師は、足をもつれさせながらナースステーションへ駆け足で戻っていく。
師長は声にならない声を喉元から出し、心拍数と呼吸数がどんどん上がっていく。冷や汗もかき始めている。良からぬことをしようとしてバレてしまった後の身体的変化と合致。……事実を看護師が調べるまでもないか。
『千歳蘭。そいつは黒。花園翔の読み通り、ボス側の人間』
「あら、そうなの。ねぇ、師長さん。ボスって知ってる?」
「……し――」
ガンッ!
師長の左頬を掠めたメスが、そのまま床頭台に突き刺さった。左頬からはツーっと血が伝う。硬い素材で出来ているはずの床頭台が、数センチほど抉れている。血が伝うと同時に、師長の目からは涙がとめどなく零れ落ちていた。嗚咽も聞こえてくる。人間が恐怖を感じた時に起こる生理的現象そのものが目の前で起きていた。
それにしても、千歳蘭。貴方は本当に乱暴者だ。データベース上、このような感情の爆発をさせるのはヤのつく人間だが。いや、それ以上の何かを感じる。
「蘭さん。一般人をそんなに詰めないでください。過呼吸を起こしているじゃないですか」
「蓮くん。こういうのはね、チンタラするのはよくないのよ。勢いが大事なのよ?」
西園寺蓮は、短く溜息をつき眼鏡を押し上げる。そして、小首をかしげながら続けた。
「なぜ師長がボス側の人間だということに気づいたんですか? 人間が次々と災害に巻き込まれて殺されているこの状況で、人間が自らボスに加担するなんて、普通は考えつかない」
『ネヴァはボス側にいた頃、ボスを通じてここの師長とやりとりをしていたんだ。今朝、天たちがこの病院に行くと聞いたネヴァが、「蓮と虎がこのまま入院していても大丈夫なのか」って心配してくれたんだ』
「ネヴァに助けられたということですね。それで? 師長をどうするつもりですか?」
「そうね。人間でボスに加担しているケース初めてよね。ボスに加担するに至った経緯を全て吐いてもらおうかしら?」
廊下からいくつもの足音が近づいてくる。千歳蘭が大きな声をあげ、物騒な音も立てるものだから、ナースステーションの看護師が全て病室に集まってきた。それに、先ほど指示を確認してこいと怒鳴られた看護師も一緒に戻ってきている。
その看護師は自分の手をぎゅっと握りしめ、眉を下げ言葉に詰まったような顔をする。数秒後、ようやく口を開く。
「……西園寺さんの追加指示は何も出ていませんでした」
病室前の廊下に集まった看護師たちが「どういうこと?」「なんで師長さんが押さえつけられているの?」各々が推論を口にし、騒然としている。事情を知っている看護師だけ、顔を真っ青にして俯いている。
「蘭さんが大きな声を出すから騒ぎになったじゃないですか」
「あらあら。どうしましょうかね」
千歳蘭が何かを閃いたように口角をあげる。そして、何をどう判断したか理解不能だが師長の拘束を解いた。そして、数歩後方へ歩きウェイトレスさながらの仕草で両手を病室の入口へ向ける。
「どうぞ? 師長さん」
『蘭さん……? あなたは一体何を?』
長年の付き合いである花園翔も千歳蘭の行動を理解できていないようだ。その声色は困惑しかなかった。
「師長さん。蓮くんを殺してまで成し遂げたかった何かがあるんでしょう? ここで、このまま捕まっていいの? ほら、チャンスをあげる。逃げ果せて見せなさいな」
さっきまで嗚咽を漏らして泣いていた師長。その言葉を聞き、再び瞳に決意が宿る。呆然とする看護師の集団を無理やり分けるようにして、病室を飛び出ていった。
「翔。ネヴァちゃん。追跡は任せたわよ? 私は証拠を集めたり蓮くんの退院の手続きをするから」
『……わざと逃がしたんですか。全く。いつも考えることが突拍子ないですね』
「他の看護師に見られた以上、警察沙汰になるのは避けられない」
紫色の唇に人差し指を置き、妖しく微笑みながら続ける。
「人間側にボス派がいると分かった以上、警察を全面的に信頼することも難しい。だとすると、必要な情報は私たちで聞きだす必要があるわよね」
『千歳蘭。貴方は本当に味方だと頼もしいわね』
「あら。お褒めの言葉ありがとう。ほら、早ういきなさい」
私も病室を飛び出る。病室前の看護師たちの頭上を勢いよく通ると、驚きの声が上がった。そんな声を無視して師長が走って行った方面へ向かう。
花園翔が私の聴覚感度を上げる。斜め右方向から、けたたましく走る足音を検知。真っ赤なサーモグラフィも視界に捉える。
非常階段の扉を開け、落ちるようなスピードで階段を駆け下りていく。私は空中に浮きながらその懸命な様子を眺める。……人間の身体は不自由なものだな。一つ一つの行動を成し遂げるためにここまで疲れ果てないといけないとは。
師長は私の追跡に気づいていない。『病院から逃げる』その一点の目標だけを信じ、愚直に階段を降り続ける。私は距離をとりつつ、静かに監視を続けた。




