91.魔王のち鬼、時々女狐
──クリスマスムード一色のキラキラした夢の夜、色とりどりの幻想的な光と音楽に包まれた中で、以前先生が言っていた言葉を思い出した。
「いつかここで出来たら良いですね」
握られた手の力が強くなり、先生が少し視線を逸らすようにピアニシモで囁いた。
「その時は家族でこようか」
「ぇ?」
無言でスタスタ歩いて行く先生を、少しだけ足早で追いかける。
先生の顔を見上げると、何もなかったかのような笑顔を向けられたが、あまりにもその顔が美しくて立ち止まってしまった。
「何?」
にっこり笑いながら言ったその笑顔は、とても穏やかで柔らかく、夜空に微かに浮かび上がる月の青白い光を背中に受け、とても神秘的で美しく、まるで月の精霊のような姿だった。
「あまりにも綺麗だったから」
「空か?」
先生のちょっと不思議そうな表情に、私は首を横に振りメゾピアノで答えた。
「貴志さんが」
その言葉に月の精霊が手を引っ張り、中央奥に見える幻想的な世界に佇む城を見ながら言う。
「世界を抱きに行くぞ」
「はい」
◇
「お前、食い過ぎだろ」
「だって、どれもこれも可愛いんだもん~~」
◇
楽しかった時間は本当にいつでもあっと言う間に終わってしまう。
先生から病気を告げられ手術するまでは「とにかく生きていてさえくれれば、他は何も望まない」と、本当にそう思っていたのに……
そして、手術が始まると命もだが「あの光の世界に戻して欲しい」とまた次の欲望を願う。
それが叶うと、今度は贅沢にも「幸せな時間」が永遠に続くことを望んでしまう。
人は欲深い生き物だなと自分でも呆れてしまう。
そして、そのための努力を私は、この目の前の人ほどしているのだろうか?
自分の命を削ってでも「愛する音楽」に生涯を捧げられるだけの熱意と精神力があるのだろうか?
「何?」
「ううん。やっぱり先生って凄いなと思って」
「何だそれ」
魔法がとけて家路へと向かう車の中、改めて先生の凄さを実感する。
「先生って、もう無理だ!ってなることってないんですか? 逃げたいとか」
「あるよ。何百、何千と」
「ぇ? そうなんですか??」
彼には一切の後悔や悩みなんかないのかと思っていたから……
驚きの答えだった。
「一応人間ですから」
笑いながら言った先生の顔は「人間」には到底見えなくて、寧ろ神々しささえ感じさせる、自信に満ちた表情だった。
◇
久しぶりに先生と一緒に「出勤」する。
凄く懐かしいような気持ちになった。
1年通い続けた桜並木の坂は、今は茶色で太く大きな木が連なっていた。
周りの目を気にしつつドキドキしながら先生の車に、駆け込むように飛び乗っていた懐かしの駐車場を通り過ぎ、裏口の職員駐車場に停車した。
「ところで先生って、もう学院の先生じゃないですよね?」
「ん?」
「いや……ここってその……」
「細かいことを気にするな。うちの土地だ」
「都合の良いときだけ、お父様の息子になるって~~もう~~」
「うるさいよ? スポンサーだからいいんだよ」
こういう時の先生の顔って少年のようで、本当に可愛い。
ただ、このときの言葉を私はこの後訂正することになる……
とは、思いもしなかった。
◇
「花音、それは小学生の学芸会か?
あ? やる気ないなら出て行け!」
「すいません!」
魔王の完全復活だった。
モニター越しが怖い?
いえ、間違っておりました。
至近距離で、スコアを投げられるほうが100万倍迫力ありました……
「お前邪魔。次『春』通し。ユーリ連れて行け!」
「了解」
一切私の顔を見ることなく、通し練習から「邪魔だから出て行け」と容赦なく魔王様より告げられる。
その言葉に反論するだけの「音」が出せない私は、拒否権も発言権もなく、魔王の弟子に連れられて隣の「特訓部屋」へ収監された。
「『夏』頭から」
ユーリさんの表情が一瞬にして変わった。
「違う! 刻むんじゃない。次の音に繋ぐ! 馬鹿なの?」
「はい!」
「ちがーう! 馬鹿! テンポ維持出来てないだろ馬鹿!」
馬鹿多くないですか? ユーリさん……
「バイオリン離すな! 馬鹿か!」
馬鹿多いって……
「Glaubst du wirklich, du kannst mit Takashi auf einer Buhne stehen? Willst du mich verarschen?」
(それで、本当にタカシと同じ舞台に立とうとしているの? 舐めてるの?」
「ユーリさん……」
「あ、失礼。最初から! さっさと弾けよ。ノロマ」
日本語でも怖い……
それから1時間みっちり鬼教官による指導が行われた。
「ハァ、ハァハァッ……」
脚がガクガクしてきた。指先の感覚も少し弱くなってきていた。
「誰が休憩していいって言った? 何様なの? さっさとやれよ!」
こ、怖いです……ユーリ様。
先生とは違う圧が凄すぎる。というかユーリさんって怒ると本当に早口で全く別人に豹変する……
それから約1時間、鬼教官による、とても親切丁寧な特別授業が終わり、やっと「監獄」から外の世界に出てきた。
「どうだ? ユーリ」
「50%かなぁ。そもそも基礎体力がなさ過ぎ。タカシが甘やかすから」
「だそうだ花音。ストレッチ教室を帰りに申し込んでやろう」
「ぇ? ええええええ?」
◇◆
「見学じゃないのかあああ!!」
先生に連れられて申し込みに行った瞬間、即日レッスンに誘われた。
お優しい魔王と、これまた女狐、あいや教室の先生様による大変親切なご配慮により、即日レッスンに参加させていただくことになった。
とてもとても慈悲深い本家魔王様からの温かい気遣いのお陰で、夕食までの間、非常に貴重な幽体離脱をリアル経験させていただきました。
◇
時間通りにお迎えに来てくれた先生の車にヨロヨロになりながら乗り込む。
「お疲れさん」
「死ねました」
「生きてるし。何食いたい?」
「肉~~~肉!!」
そして、今日も終わった瞬間に、もの凄く優しくなる貴志様に戸惑いながら焼き肉を貪る。
「あ、熱っ!」
「急いで食べるからだろ。大丈夫か?」
「ゴッゴホッ。あ、熱っ、ゲホッ」
先生が笑いながら水を渡してくれるが涙は出るし、鼻水は出るしで、もう散々な醜態を晒してしまった。
「は、恥ずかしっ」
「今更だろ」
「せんせぃ……」
そこからは珍しく先生が肉を焼いてくれ、ちゃんと適度な大きさの肉を取り分けてくれた。
やれば出来るんですね。先生……
「何か新鮮ですね」
「何が?」
「先生にこうやって、してもらうことなんか滅多にないですもん」
「前、やったろ」
あ、手を痛めた時ですね。あの時はお世話にはなりましたが、先生の場合極端過ぎるから……
「良いですよ、私がやりますから」
何となく居心地が悪くなり、先生が焼いていたトングを取り上げた。
絶対に先生には、似合わないスタイルですもの。
先生は大人しく座ってお食べ下さい。そのほうが私も落ち着くのでどうぞ愚民にお任せ下さい。
「ちゃんと野菜も食べて下さいよ」
「いらないです」
「駄目です! タマネギ残さないで下さい」
「タマネギでお腹いっぱいになりたくないです」
「先生!」
「何で焼き肉屋に来て、わざわざ野菜食うんだよ」
「え?」
何を突然言い出すのかと思ったら、驚きの発言だった。
「えっと……仰っている意味が理解できませんが?」
「野菜食いたいなら、焼き肉屋じゃなくていいだろ。肉食うから「焼き肉屋」って名前だろ」
「………えっと。貴志さん? その論点で行くと、ラーメン屋さんに行って餃子が食べれないじゃないですか」
「ラーメンしか食わない」
「………」
勝ち誇った顔で言うのやめて貰っていいでしょうか?
誰だよ……こんな育て方したの。
あ、由紀様か……
由紀様の微笑む顔が脳裏に浮かぶ。
うん。あの人なら……
やっぱり「天才」は普通の環境では育たないんですね……
肉だけを食べ続ける先生を見ながら、もはや呆れるよりどこか違う世界の御方に見えた。
「せんせ、ご飯もちゃんと食べて下さい」
「太るから要らないです」
「何言ってるんですかあ! そんなに細いのに!!」
その目は何でしょうか? 視線が痛いです。
「太りました私?」
「まあトレーニングしたら落ちるだろ」
「ちょ、それって太ったってことじゃないですかあああ!!」
「デザートは?」
悪魔の囁きに負けてしまい。結局フルコースで美味しい焼き肉を堪能した。
◆◆おまけ◆◆
ピアニシモ(PP)音楽記号の一種:小さく囁くような音、とても小さくする。(ピアニッシモ)
メゾピアノ(MP):やや弱く。




