9.夜間飛行
相変わらず、練習室内には先生の怒号が飛んでいたが、私はニヤニヤが止まらない。
だってあと数時間したらデートなんだも~~ん。
あの時、約束した観覧車に乗る約束を今日叶えてくれるって。朝から嬉しくて、どうしても何度も部屋の時計を見てしまう。
「サクライ! 集中して!」
や、ヤバイ……
怖いです……ユーリさん。
「もう一回最初から!」
サクライ音が変わった? あれだけ不安定で頼りない音だったのに。
聴かせようとしているよりも、聴いて欲しいと媚びを売る感じだったのに?
タカシが言っていた「本物を見せてやる」ってサクライのことだったのか?
たった数日でこんなに変わるのか? どんな魔法使ったんだ? タカシは……
「オケーもどろう」
この時ユーリは、目の前の小さな少女が初めて大きく見えた。
その姿に一瞬、今まで味わったことがない感情を抱いたのだった。
◇
オケメンバーと合流した私は、先生の指示により、メンバーと一緒に最後の通し稽古に入る。
二日目の『ホルストのジュピター』
こっちはソロパートはないけれど、その分周りに負けないように、頑張らないといけない。
「ユーリ。ビオラ引っ張れ」
「了解」
ユーリさんがビオラに入ることで、ビオラの人達の音が変わった。
第二も含めて全員が彼に引き上げられた。
彼に合わせようと全員が彼に音を聴き、彼の示す道へ皆が進んで行く。
これが本物のコンサートマスターなんだ。と思い知らされた。
最初は反発していた、高科先生や天野先生もユーリさんのその格の違いを目の当たりにして、今では彼に指導を願うまでになっていた。
キャリアや年齢、出自ではない。
変なプライドやそんなことに拘る者は、音楽を愛する本物の音楽家と名乗る資格はない。
先生が常に言っている言葉の意味。
「お、終わった。すご! これまだ練習よねぇ」
思わず声に出ていた。
先生の顔を見るが、無言のままだった。
え? これじゃまだダメってことなの?
─◇
サクライが良くなったことで、タカシナや他も引き上げられた?
タカシが言っていた「本物」のキーパーソンはやはり、サクライか。
「サクライ。3ページ目ビブラート効かせすぎ。今日二回目ね注意したの。馬鹿なの?」
「す、すいません」
馬鹿って……
「ビオラ、2ページ目入り遅れてる。あとテンポ、そこの二列目の君、一拍遅い」
「ミスターアマノ。音もう少し上げて。サクライ引き立てなくていいから」
「タカシナ。3ページの4段目、3小節目テンポ乱れてた」
凄っ! 自分が演奏しながら全てミスタッチ頭に入ってるんだ……
その後も、先生とユーリさんの細かいチェックが次々と入れられスコアに書き写すメンバーの中、先生が笑っていた。
「後、任せた。帰るぞ花音」
え?
ええええええええ?
良いんですか?
時計を見ると17時ぴったりだった。
確かに練習時間は今日は17時までの日ではあるが……
皆が、ユーリさんを中心にスコアに注意書きを入れたり、互いに話しをしている中、私は逃げるようにそっと部屋を出た。
◇
「お邪魔します。って先生、良いんですか? あれ」
いつもと変わらず、普通にエンジンをかけ、さっさと車を走らす先生をまじまじと見た。
「時間通りだろ。その後まで知らねぇよ。そんなの自習だろ」
「そうですけど……」
先生が言っていることは正しい。指揮者がそこまで付き合うオケなんてない。
でも何となく気まずいと言うか……
「嫌なら戻っていいぞ」
「もう! そんなわけないでしょう!」
「あんまり感情入れてると1年持たないぞ」
「え?」
「今はこっちのメンバーしかいないから分からないのは当然だけど、あっちの奴らは日本人とは全く違うから、平気で遅刻してきたりとかな」
先生が苦笑いする。
「え?」
「まぁそのうち分かるさ」
「ええええええ?」
ちょ、せ、先生……まだ校内出たばかりなの、に……
いきなり何の前触れも無く、唇を塞がれた。
「何?」
「いえ……」
最近あまり周りの目を気にしなくなったと言うか……
積極的過ぎると言うか……
練習時のクールさとギャップがあり過ぎる先生に戸惑う。
「あーーあと少しだからなぁ自由に出来るの」
「ぇ?」
どう言う意味ですか?
また何処か行っちゃうんですか?
「まぁ、別に俺はいいけどね。気にしないから」
「ぇ?」
先生がいつものちょっと意地悪めいた顔をして笑う。
「日本公演終わったら、暫くは面倒な奴らが付いてくるぞ。まぁ俺は気にしないけど。どっちにしろお前の顔は出るよ。出来るだけ抑えるけれど、学生と違って未成年とは言えプロデビューしたら規制は出来ないから」
「え?」
「マイヤー見たろ? 国内は出来るだけ抑えるけど、海外全部は無理です」
「……そういうことか」
「言ったろ? 最初は逆風来るって。いくら俺が守っても最終的にはお前自身が黙らせるしかないって」
「……はい」
「音楽家の仕事をちゃんと真っ直ぐにこなしていれば良いだけだ」
「はい……」
「大丈夫。それだけ考えていたら。後は全て引き受けるから」
え? ちょ、せ、せんせいっ。
ほんの一瞬だったが、いきなり抱き寄せられ唇が触れる。
先生って全くこういうの気にせずしてくるのって、やっぱり海外に長く居たからかしら?
「何?」
「いえ……先生って今まで何人ぐらいの女性と……お付き合いと言うか……彼女と言いますか……」
回答が怖いけれど、ちょっと気になる。
「それ聞いて楽しいのか?」
「……だって気になるんだもん」
「なら一人って言ったら信じるのか?」
「……」
「だろ? なら同じだろ」
うまく誤魔化されたような気が。
でも10人とか言われてもそれはそれで……
「今はお前しかいない。それで充分だろ」
「今はって? どう言う意味ですか? 浮気しないって言ったくせに~~」
「お前次第な」
「何かズルイ……」
「何がだよ」
「5人とか?」
「は?」
即答でしたよね? 今。
しかも何言ってるの? って顔でしたよね?
「もっとなんですね……10人ぐらい?」
「……」
「ぇ? もっと?」
「何食いたい」
話逸らしたな?
「20人とかはないですよねえ?」
「昔の話だって。ここ一年お前にかかりっきりだったろ」
先生が気まずそうにサングラスを取り、掛けようとした。
「ええええ? もっとなんですか?」
「出会う前の話しても意味ないだろ。それとも一人ずつ全部説明させたいのか」
「……ごめんなさい」
明らかに不快な顔した先生に、後悔し俯いてしまう。
「過去に嫉妬しても意味ないだろ。未来は全てお前のものだ」
繋いでいた手を離し、強く抱き寄せてくれた先生の顔は、ズルイぐらい眩しくかっこ良かった。
「せんせ? 好き?」
「お前、それ趣味か?」
「……だってぇえ聞きたいんだもん」
「ベッドの中でしか言いません」
「むうう」
◇
「観覧車~~! 先生早くうう」
「観覧車は逃げません」
「早く、早く! 来てきて」
「嫌です」
「もううう! 早くぅううううう」
「面倒くさい女」
「何か言いましたか?」
「何も申しておりません」
目の前に大きな観覧車がキラキラ光っているのを見てたまらず走るが、先生はゆっくり歩きながら、笑っていた。その姿にちょっとムカつき腕を引っ張ろうとしたら、逆に捕まえられた。
怒られるかな? と思いつつそっと瞳を閉じた瞬間、それに応えるように優しく塞いでくれた先生に、少し恥ずかしくなり離れようとしたが、先生がより一層強く熱く注ぐ。
立っているのがやっとになるぐらい、強く長い口付けをされ頭が真っ白になり、足の力が抜けそうになった瞬間、耳元で囁かれた。
「愛してる」
ずる過ぎる。
こんなのかっこ良すぎる。
◇
「見てみて! 綺麗! あ! 船だ!」
「立つなよ。阿呆、動くな!」
──ガタッ
「キャァ」
「だから言ったのに」
白い視線が痛い。
ごめんなさい……
だって生まれて初めて観覧車乗ったんだもん。
しかも先生と!
それにこんなロマンティックな夜の観覧車なんて!
「餓鬼かよ。止まったら恥ずかしいから、やめてくださいね」
「すいません……」
先生の呆れた顔が突き刺さり過ぎる。
でも、無言だけど笑顔は変わらない。
「お前もしかして飛行機に乗ったことない?」
「無いですが?」
額に手を当て俯いた先生に、私はちょっと悲しい気持ちになりながら見つめる。
「……絶対はしゃぐなよ。恥ずかしいから」
「先生と一緒に旅行だあああ!」
「仕事です。そして座れ」
「あっ……」
また、やらかすところだった。
観覧車のゴンドラが頂上に差し掛かった時、何方からともなく互いに求め合うように唇を重ねる。
痺れるような感覚が襲ってきて離れようとする私を、先生は許さなかった。
彼に囚われた長い長い時間が、幻想的な夜に甘いムスクの薫りと共に溶けて行く。
身体中の力が抜け、まるでそれは夜空を二人で飛んでいるような錯覚に堕ちて行った──




