8.夜明け
──不安と後悔で一睡も出来なかった長い長い夜がやっと終わりを告げる。
カーテンを開けると、ラベンダー色した空に光の帯が煌き、オレンジ色に部屋が包まれた時だった。
──ガチャリ
玄関のドアが開く音がして、急いで走って行った。
「ごめんなさい!」
「風邪引くぞ。まだ朝は寒いから」
優しく抱きしめたあと、先生の上着を肩に掛けてくれた。
「何故だか分かったのか?」
昨夜一人になってずっと考えていた答えの質問だった。
あれだけのことをしても許してくれた先生が、今回本気で怒った理由を。
ユーリさんとの関係を私が問い詰めたからではない。
そんなことで怒るような人ではないことぐらい分かっていた。
答えは一つしかなかった。
「比べたからですか?」
「お前のままで良いって言ったはず」
先生の顔は、いつもと変わらず真っ直ぐに私の瞳を見ていた。
その瞳から、逃げてしまったことに後悔して謝った。
「ごめんなさい。二度としません」
「寝てないんだろ。まだ早いから少し寝てこい。起こしてやるから」
「一緒がいい……」
「めんどくさい女」
先生が笑った。
それだけで良かった。
他に何も要らない。
気づけば、その胸に思わず抱きついていた。
◇
「花音さん。そろそろ起きたらどうですか?」
「嫌です。ずっとここが良いです」
先生の腕枕に包まれる至福の時が一番の贅沢な時間なんだもん。
「腹減ったんですが」
「駄目です」
「拷問かよ。指揮者は腕大事なんですが?」
「はっ! ごめんなさい!」
「冗談だよ。どっちにしてもそろそろ起きろ」
先生が腕を動かし、かわりに枕を入れられた。
離れようと思えば簡単に抜けたはずなのに、それをしなかった先生。
馬鹿な私を見捨てることなく帰ってきてくれたことに、嬉しくて涙が出てしまう。
「泣くなよ。俺が泣かしたのが直ぐバレるだろ」
先生が苦笑いする。
秘密のようで秘密じゃない関係がちょっと嬉しかった。
先生は練習中にベタベタすることを嫌うけれど、終わってから周りに隠すことは一切しなかった。
そのかわり、練習中に少しでもそういう部分を見せたら、昨日のように切り捨てられた。
「今現在でのナンバーワンは間違いなくユーリだ。それは世界がまだ桜井 花音の存在を知らないからに過ぎない。俺が育てたって言ったろ? 俺の目を信じなさい」
「はい……」
「行く用意しろ」
「え? 今日って15時からですよね?」
え? まだ10時前なのに?
「ちゃんと留守番できたご褒美やるよ」
「え?」
◇
「先生ここって?」
「あまり時間ないから遠くまでは無理だけどな」
あ、いえ、そうではなくてですね。ここってマリーナ?
船を見に来たんですか?
「上着持って来い。風があるとまだ寒いから」
「え?」
先生が目の前にプカプカ浮かんでいるクルーザーを指さした。
「え??」
「船酔いするタイプか?」
「ぇ? どうでしょう……」
え??
どういうこと?
先生が差し出した手を取る。
「え? 先生って船も運転出来るんですか?」
「衝動買いでコレ買った時についでに」
「きゃっ」
突然抱き上げられ驚いた顔をした私に、先生が微笑みながら言う。
「段差あるから」
ゆっくり船内に運ばれ、下ろしてくれた先にあった光景に驚いた。
「これは? って凄い!」
フルーツや、スィーツ。他サンドイッチや軽食がテーブルに用意されていた。
「おいで」
先生に手を引かれ、操縦室に入る。
「嘘ーーー動いたーーーーーーーー!!すごおおおおい!」
「動かないと意味ないだろ」
バカな子を見るような目はやめてもらってもいいですか?
悲しいです。
二人だけの空間。
幸せな気持ちでいっぱい!
……ではなかった。
「だから食うなって言ったのに」
「だ、だって。き、きもちわ、る」
最悪、神の前で……
背中をずっと摩ってくれる先生に嬉しい気持ちはあるけれど。
こんな醜態を見せるのも……
複雑な気持ちだった。
「取り敢えず戻るから、ちょっと横になっておけ」
「す、すいません……」
最悪だ……
せっかく連れて来てくれたのに……
◇
「起きれそうか?」
「は、はい……」
立ち上がろうとするが目眩が……
ふらついた瞬間、先生の腕に抱かれていた。
「すいません……」
「仕方ないだろ。水族館だなお前は」
「悲しい……」
先生に抱き上げられたまま、カフェのテラス席に運ばれた。
「座れそうか?」
「……何とか」
お店の人の勧めで長椅子に移動し、先生の膝枕で横になると言う、なんとも恐れ多い醜態を晒してしまった。
「ごめんなさい……」
「いや、俺が悪かったわ。今日練習休んでいいぞ」
「それはでも……」
ずっと頭を優しく撫でてくれる温かい先生の手で、瞼が重くなる。
◇
「あれ? 此処って?」
見慣れた天井と、寝室に驚いた。
いつの間に?
って! 私あのまま寝ちゃってた?!
「気分はどうだ?」
先生が、水を持って来てくれて少し心配そうな目で見つめる。
「ごめなさい。あのまま私……」
「ちょっとタイミングが悪かったな。睡眠不足の中、俺が無理やり連れて行ったのが悪かったわ。ごめん」
先生が優しく頭を撫でながら、その胸に引き寄せてくれる。
「もう大丈夫です」
でもこのままずっとこうしていたい……
「一人じゃ不安だろ。由紀呼ぼうか? 人入れるの嫌なら、実家の俺の部屋で休んでてもいいけど」
「え? って今何時ですか?」
「14時」
苦笑いしながら答える先生に驚愕した。
「うそおお! いきます! 大丈夫ですもう!」
そんなに寝てたんだ私……
「無理する必要はない。まだ本番まで日にちあるし、ゆっくり休みなさい」
「どっちが良い? ここで留守番するのと、実家の俺の部屋にいるのと」
「ここで大丈夫です」
「早めに帰るから。何かあったら直ぐ電話して来い」
何もかもが優しい先生に「行かないで」とは言えない雰囲気だ。
情けない……
船酔いで倒れるって……
「せっかく連れて行ってくれたのに……ごめんなさい」
「体調良くなってたら週末、水族館に連れて行ってやるよ」
「本当に?!」
優しく口づけをして、部屋を出て行った先生の背中を見ながら、先生が掛けてくれた上着を頭から被り横になる。
先生の匂いに包まれるだけで、温かく安らかになれた。




