7.闇夜
──『ドヴォルザーク 交響曲第9番 新世界より 二楽章(家路)』
ユーリさんの弓がゆっくり動き始めた。
バイオリンソロなのに、壮大なフルオーケストラが見えた瞬間だった。
パガニーニのカプリースとは全く違う。
柔らかで伸びやかな音色。
広い薄蒼空から雲が広がり、辺りが少しずつゆっくり暗くなる。赤く染まるのではなく、黄色の光に包まれながら、その音はゆっくりと地平線に沈んで行った。
何故だか分からないが涙が溢れていた。
これが世界なんだと。
ズキン──
彼が言った「オトモダチゴッコ」の言葉が胸を締め付けた。
──パチパチパチ
全員が微動だにしなかった中、天野先生の拍手の音により、皆が我に返ったかのようにユーリさんに賛辞の拍手が惜しみなく贈られる。
「サクライサン。タカシのオケのコンマスを賭けようか? 負けたほうがタカシのオケのコンマスから手を引くこと」
ユーリさんが笑いながら握手を求める。
使えなかったら切る。
先生の言葉の意味が今、目の前で証明された瞬間だった。
出された手に私は自分の手を重ねた。
「桜井!」
「桜井やめろ! 挑発に乗るな! 貴志止めろよ!!」
天野先生と、高科先生が割って入ろうとしたが、二人に私は首を横に振る。
「交渉成立ってことで。よろしくね? サクライサン?」
先生を見るが、無表情のまま何も言わない。
音楽で先生が忖度や贔屓をすることは絶対にない。
決めたのは私だ。
「指導をお願いします。ユーリさん!」
「タカシ借りるよ? 姫」
その声に先生は無言でドアの外を指さした。
ユーリさんと一緒に隣のレッスン室に向かう。
◇
「あーー違う違う。離すのが早すぎ。見てて」
驚いた。ユーリさんの真剣な指導に。
一音ずつ細かな指導をしてくれる。
「ノーー! やり直し! 二段目!」
「はい……」
高科先生より怖いかも……
「はぁ、はぁ……」
一時間ぶっ通しで……
死ねる……
鬼過ぎる……
「サクライ? 誰が休憩って言った? 3ページからもう一回!」
「ぇ?」
「Beeil dich, du Langsamer!」
(早く しろよ ノロマが)
「え?」
「あぁーーーソーリー。早くして!」
「……」
「ノー! バカなの? そこ違うってさっきイッタ!」
怖すぎる……
先生のほうが良かった……
しかもめっちゃ早口だし、怒るとドイツ語混ざるし。
たまにイントネーションおかしいから聞き取り難いし……
それからも、とてもとても親切丁寧なご指導がみっちり一時間続いた。
「オケ。今日は終了。モドロウ」
「……はい」
皆が居る練習室、大きな方の部屋に戻る。
第三講義室は部屋が隣と中で繋がっていて、ガラス張りになっているので向こうの練習風景は此方からも見える。
窓の外にふと視線を移すと、既に日が暮れていた。
ん?
何か皆さんお疲れの感じ?
高科先生??
天野先生?
えっと、その目は何でしょう?
「今日はこれで終了。明日は通しで新世界。以上解散」
え?
今、なんて言いました?
今日、まだ二日目がやっと終わったばかりですよねえ? 通しでやるって?
「ね? ボクのほうが優しいでしょ? タカシより ウサギちゃん?」
最悪だ……
「帰るぞ花音」
え?
それだけ言ってスタスタと部屋を出て行く先生に、急いでバイオリンを片付けて、荷物を持って部屋を後にした。
え? 先生怒ってないの?
嫌われたと思ってたのに……
◇
「お邪魔しますぅ」
「腹減ったわ。何食いたい?」
「は?」
ぇええええええええ?
何でいきなり?
先程までと、あまりにも違い過ぎて倒れそうになった。
「結局、昼食えなかったんだよ、あの阿呆のせいで」
「アホって……って怒ってないんですか?」
「誰に?」
「私に?」
「何で?」
「え?」
え???
あんなにも冷たかったのに??
ええええええええ??
「仕事とプライベートは切り離して考るって言ったろ?」
「……ずっと怖い顔してたから、嫌われちゃったかと思って……怒ってると思ってたから」
「あ? 怒ってないが?」
「え?」
ええええええ??
あれで怒ってないんですか??
も、もしかして……
先生ってオケリハの時って……
そう言えば思い出した!
前に高科先生が言ってた言葉!
慣れるまで自分の近くに居たらいいって。
無表情になるってこと?
嘘でしょ……
「何だよ」
「い、いえ、何でも御座いません。魔王様……」
「あ?」
「い、いえ何でも。心の声が」
「ラーメン食いたい」
「は?」
え? 先生がラーメン??
や、やめて下さい。
神がそのような庶民の……
あ、ラーメンは美味しいですよ?
うん、ラーメンに罪はないです。
でもですね。神が食するのは、ちょっと?
◇
結局、食べるんですか!!
「何? 嫌いなのか?」
「……い、いえそのようなことは」
色んなことが、有りすぎて……
お腹いっぱいなんですが……
何で普通に何もなかったような顔して、しかもラーメン啜ってるんですか?
「のびるぞ? 食えよ」
「……いや、そうじゃなくてですね。何で何もなかったような顔して食べてるんですか?」
「は? 食うだろ。普通」
天才の思考回路は、愚民にはもう理解できませぬ。
「あああああああ!」
「な、何、いきなり」
「先生とユーリさんてどういう関係なんですか?」
「は?」
「だってユーリさん恋人だって言ってたし……酷いですぅ。二股だなんて」
なんか、色々な意味で今日はムカついたから先生に仕返ししてやろっと!
「お前バカなのか?」
は? 何でそうなるんですか?
「何でそうなるんですか!」
「くだらないこと聞くから」
「くだらないって……気になるもん」
「阿呆」
「ひどおおい!!」
「帰るぞ」
むううううううう!!
◇
静かな車内でエンジン音だけが聞こえる。
先程の私の質問に怒ったのか何も言わない先生に、私もそれ以上は何も聞けないし、さっきのは私が悪い。でも何となく素直になれなかった。
ごめんなさいの一言を言い出せない自分に、何故か分からないが涙が出た。
嫉妬?
いや、違う。
ユーリさんの音に嫉妬していた。
先生が認めた音に嫉妬していた。
「着いた」
短く乾いた声が上から下りて来た。
ドアに手を掛けた瞬間。
──視界が覆われた。
何度も重ねたはずの唇なのに、躊躇う私に先生が止まった。
「朝、迎えにくる。じゃあな」
エンジン音が鳴り響く瞬間、彼に縋っていた。
「ごめんなさい。行かないで!」
「頭冷やせ。朝迎えにくるから」
先生の顔を直視出来ない。
暗い車内でも分かる。
冷たい無表情な顔が想像出来たから……
「ごめんなさい! ごめんなさい! 二度と言わないから行かないで!」
「降りろ」
拒否権の無い言葉が上から放たれた。
ドアを開け車から降りる。
それとほぼ同時にエンジン音が、静かなマンションの駐車場に高く鳴り響いた。
◇
一人ぼっちの広すぎる部屋を見渡す。
先生と一緒に買った食器や、カーテンを見つめる。
私がどうしても欲しいと強請った観葉植物を眺めながら、溢れてくる涙を拭いた。
全て私が悪い。
単なる嫉妬で素直になれなかった罰だ。
謝りたい……
ちゃんと謝りたい。
恐る恐る勇気を出して電話を掛ける。
『その電話は現在使われていないか電波が届かないところに~~~』
電源を切られたことで、犯した罪の大きさに後悔した。
ごめんなさい先生……
「お忙しい中、最後までお読み頂き大変ありがとう御座います」
ここまでお読みになった時点でも構いませんので、広告下にある✩✩✩✩✩から作品へ評価を頂けると、執筆へのモチベーション維持に繋がります。また、続きが気になると少しでも思われたらブックマークも是非お願いします。




