88.お父さん
──先生に見送られながら家を出るなんて初めてのことで、なんとなく緊張した。
「行ってきます」
「気をつけろよ。暗いから」
先生がまだ医師から車の運転許可が出てない為、タクシーで練習場である学院に向かった。
◇
「お疲れさまです~~」
「おめでとう。良かったね」
「おめでとう。あと差し入れまで」
白井さんや他のメンバーの方達に温かな言葉を掛けて貰って、自分のことのように嬉しく思った。
和やかな雰囲気だったのは、先程までの一瞬だった。
ユーリさんの集合の声で、モニター画面に魔王の姿が映し出された瞬間、魔王様の低い声が、練習室に響いた。
『5分過ぎてる。ユーリ!』
「すいませんでした」
その声にユーリさんが即座に謝罪し、全員の緊張感が一気に加速した。
今日は昨日のおさらいと、最終日の『第九』の練習に入る予定だ。
魔王様は無表情、無言のままでソファに座って此方を見ている? 感じだが、全く動く様子はない。それが余計に此方に緊張感が増した。
バッハの通し稽古が終わり、ユーリさんが魔王様に総評を求めた。
「タカシどうだった?」
『コメントを求めるレベルなのか?』
先生の低く抑揚のない声の後、モニター画面が真っ黒に変わった。
先生の一言によって本日もまた「ドイツフィル伝統の軍隊練習」に突入した。
「無」の中で刻み続けるメトロノームの音が、段々小さくなりまったく気にならなくなる。
迷いや不安や、悩みなどが全て無くなり「無」の世界の中「音」を奏でることだけに皆が集中していく。
そしてその「音」が共鳴し繋がり合った瞬間、部屋全体に「歓喜」時が現れた。
ここに居る者だけが感じられる「繋がり」その安心感と信頼感に感動し涙を流している者がいた。
『10分後シューベルト』
魔王様は何も言わず、休憩の指示を出す。
その声に、皆から歓喜の声が沸いた。
これこそが「音楽」なんだなと再確認できた体験だった。
この後も時折、魔王様の冷たい声が真っ黒なモニターから流れて来たが、なんとか最後まで終わり解散となった。
夜間になるので高科先生に学院預かりになる楽器を託し、家路へと皆急いだ。
◇
一応チャイムは鳴らしたが、ドアの鍵を開けていると、先生が出てきてくれた。
「おかえり」
「ただいま~~」
ほんの数時間だけ離れていただけなのに、先生の笑顔と優しい声に、嬉しくて抱きついていた。
「何だよ」
「だって、先生がいるんだもん」
「大人しく留守番しとけって言ったのお前だろ」
「そう言う意味じゃないですうう~~」
「ケーキあるぞ」
「え? まさか外に出たんですか?」
「佐々木」
「もう、驚かせないで下さいよ」
お夜食? にケーキを食べていると、先生が少し呆れた顔をしながらじっと見つめてくる。
「何ですか?」
「よくこんな時間にそんな甘いもの食えるなと思って関心しているだけです」
「先生が、ケーキがあるって教えてくれたんじゃないですかあ」
「別に今日食えとは言ってませんよ」
「美味しいものは、早めに食べておく主義なんです~~イチゴ食べます?」
「いらね」
「結局夕食どうしたんですか?
「……」
先生が視線を逸らした。
まさかとは思いますが晩ご飯食べてないとか言わないですよねえ?
「正直に答えて下さい」
「動いてないから腹減りません」
「先生ーーーー!!」
その後、当然のことながら魔王様を、お父様が持たしてくれた高級料亭のお弁当を無理やり食べさす刑に処した。
ただし魔王様の両手は、お行儀良く自分の膝の上で、お口だけを開ける幼稚園児の貴志君になったのは言うまでもなかった。
「先生ってドイツに一人で居た頃って、ユーリさんにまさか食べさせて貰っていたとかはないですよね?」
「あんまりまともに食う時間なんかなかったからな。移動ばかりだったし、前にスケジュール見せたろ」
以前スマホを見せてくれた先生のスケジュールカレンダー画面が真っ黒で、確かにあのスケジュールで、いつ食事をとったり寝ているんだろう? と驚愕したことを思い出した。
こっちに戻って来てからNYに行くまでの間、また家政婦さんが明日から来てくれることになったので、先生の食事などを頼んでおこうと強く思った。
本当にこの人は……
◇
先生が退院して自宅療養期間になってから早いもので、既に10日が過ぎていた。
今日は朝から検査の為、病院に来ていた。
「桜井。御神先生どうだった?」
「天野先生! どうしてここに?」
突然、聞き慣れた声がして驚いて振り向いた。
「佐々木さんに聞いて」
「そうだったんですね。今、CT室に入っています。ここで待っているように言われまして」
検査室前の待合室で、天野先生と二人で静かに待っていた。
──ギィイ
検査室のドアがゆっくり開き、先生が出てきた。
「お疲れさま~~」
「天野?」
「佐々木さんから聞いて」
「個人情報保護とかないのかよ」
「特別待遇ですから」
天野先生が笑顔で答えたが、先生は少し不満そうな顔をしていた。
「だから嫌だったんだよ。ここで受けるの」
「先生! 何てこと言うんですか! もう!」
悪びれもせずスタスタと歩いて行く先生の後を天野先生と二人で追いかける。
「やっぱり御神先生はこうじゃないと」
「ですよね」
「うるさいよ? ってなんで天野まで付いて来てるんだよ」
「同席許可を主治医から頂いたので。桜井は外ね」
「えええええ~~ずるい~~い」
「ちゃんと俺が聞いてきて嘘なく伝えるから」
「何で天野が入るんだよ」
「貴方一人だと、正直に報告しないからです!」
「やっぱり違う病院にしとくべきだったな」
「先生!」
相変わらずの先生に少し呆れながら名前を呼ばれるまで待合室で並んで座っていた。
それは、とても居心地の悪い時間であったことは言うまでもなかった。
ごめんよ、お父さん……




