82.暁の祈り
鎮痛剤の効果で空港に着いた頃には先生の体調も回復し、一時はどうなることかと思ったが、なんとか予定通り飛行機に乗ることができた。
「タカシの様子は? ウサギちゃん」
ユーリさんが心配そうに何度も聞いてくる。
「寝てますねちゃんと」
「タカシって本当に寝ている時、静かだよね」
「普段もこのぐらいおとなしいと楽なんですけどね……」
佐々木さんが少し遠い目をしながら苦笑いしていた。
うん。佐々木さんの苦労が一番よく分かります。先生のあの行動力に付き合うのって大変ですよね……
「あ、御神先生は空港に到着したらそのまま入院してもらうことになったから、一旦桜井は家に帰って着替えとか全て済ませてからまた病院に来てもらう感じで」
「そうなんですか? わかりました」
「入院手続きとかがあるんで、佐々木さんと俺で付き添うから安心して」
天野先生から、今後の段取りの説明を受けた。
いよいよ……
大丈夫。絶対に……
「アマノ、俺も行きたい」
「無理です。本来親族だけのところを無理言って、代理人の佐々木さんと桜井だけ許可取ったのに」
「えええーーー」
「一般面会の許可が出るまで無理です」
天野先生の声に、ユーリさんが肩をガックリ落とした。
その後、天野先生の指示で私たちも到着まで交代で眠ることにした。
◇
暗かった外の景色が紫色になり、徐々にそれが美しい桜色に変わった時、先生が静かに私の手を握った。
柔らかなピンク色の帯に白い霧が混ざる窓の外を見ていると、彼が私の肩に頭を預けてきたので、その頭をそっと撫でた。その手を彼が引き寄せ、そっと唇覆ってきた。
薄暗い機内の中、二人だけの秘密を守るように、先生はそのままゆっくり瞼を再び静かに閉じた。
きっと大丈夫──
真っ赤に染まった窓の外を見ていると、自然と涙が頬を伝ってくる。
先程から握られたままの手が、気づけば強くなっていた。
無言のまま小指を絡めてきた先生の肩にそっと頭をのせる。
「がんばろうね」
「医者がな」
先生らしい答えが返ってきたことに、涙が余計に止まらなくなる──
◇
無事空港に到着し、先生は天野先生と佐々木さんに付き添われそのまま病院に向かった。
「じゃぁ俺たちも帰ろうか。ウサギちゃん」
「そうですねぇ……」
ユーリさんとタクシー乗り場に向かい順番を待つ。
「俺、学院に寄ってバイオリン預けるから、ガダニーニも一緒に持って行くよ」
「ありがとうユーリさん」
「大丈夫。絶対に。タカシはすぐに戻ってくるよ」
ユーリさんがにっこり微笑む。
今は彼のその優しさがとても有り難かった。
心配する気持ちは彼も、いや皆が同じだろう。
全員が、明後日行われる先生の手術の成功だけを今は祈っていた。
◇
タクシーの車内、やましいことは何もないが何となく居心地の悪さを感じてしまう……
「大丈夫だよ? 流石にこの状態で、いこうとは思わないから安心して?」
ユーリさんが笑いながら私の顔を見た。
それって……
「あ、俺、タカシも好きだから安心してくれていいよ」
も、って……
彼の言葉に何て答えたら良いのか分からなくて、複雑な気持ちになる。
ただ私の答えは変わらないことだけは、はっきりしていた。
何事もなかったかのようにユーリさんが話しかけてきたが、その後の内容は殆ど頭に入ってこなかった。
◇◆
──とある病院の一室。
「この度は、息子がお世話になります」
「お、お止め下さい御神会長。こちらこそ愚息が大変ご子息にはお世話になっているにも関わらず何のお礼もせず」
ベッドに横たわり、その光景を冷やかな目で見ていた男が怪訝な表情で言い放った。
「佐々木がいるし用事ないから帰れ」
「貴志! 何を言っているんだ!」
「お父様……病院ですよ」
「すいません、つい……」
娘に注意された男は、恥ずかしそうに頭を下げていた。
◇
微妙な空気に包まれた病室の雰囲気に堪えきれなくなって、天野がそっと部屋を出て行こうとした瞬間、すぐ隣にいた佐々木に袖口を引っ張られる。
天野は彼のその行動に、無言で「無理無理、任せる」と目で訴えかけたが、佐々木の掴んだ手は離されることはなかった。
「では、こちらの同意書にサインをお願いします」
父と姉に見守られる中、手術の同意書にサインする師の姿に、佐々木は安堵の気持ちと「無事成功」の四文字を確信しながらも、何とも言えない不安に押しつぶされそうになっていた。
きっとその気持ちは天野も同じであったに違いない。
自然と佐々木は、掴んでいた天野の上着の袖口にシワが入るぐらい力が入っていた。
このあと明日の手術に向けて最終検査を行うとのことで、全員帰宅を余儀なくされた。
◇
そして、ついに運命の日の朝を迎えた。
「危なっ! もう少しで寝過ごすところだったわ……」
昨夜は、心配で夜中に何度も起きてしまい結局朝方までそんな感じが続き、一度起きたがまだ早すぎたために、もう少し寝ようと思ったらこんな時間になっていた。
自分でも呆れてしまう。
「こんな大事な日に……寝てしまうだなんて」
急いで支度を済ませ、病院に向かった。
◇
「良かったぁ! 間に合った~~~」
「流石は桜井。ちゃんとギリギリ!」
天野先生の呆れ顔に頭を下げながら小さな声で答える。
「もう、天野先生ったら……タクシーが込んでたんです」
私の苦し紛れの言い訳に先生が少し笑いながら答えた。
「タクシーは込まないけどな」
笑いながらベッドから先生が手招きをするので、彼に近づく。
「ちょっとだけ留守番してろ」
「はい。待ってますね」
彼が私の腕を掴み引き寄せ、軽く唇を覆った。
「ここ病室ですよ~~~そこの二人」
天野先生に注意されるが、先生は構わず続けた。
◇
その後、担当看護師さんが部屋に来て、私たちはこのまま病室で待機するように言われ、先生を連れて行ってしまった。
天野先生と二人、残された病室で長い時間を待つ。
「桜井、先に昼ご飯食べに行って来ていいよ」
「天野先生こそ、どうぞお先に?」
「佐々木さんがもうすぐ来るって言ってたから、その前に行っておいで。そのあと由紀さんも来るんだろ?」
「午前中は学院の仕事があるから、午後には来るって言ってました」
全員で同時に待っていても仕方がないよ。と天野先生に言われ、先に食事をとるため病室を出たが、何かを食べようと言う気持ちになれなかった。
飲み物と軽食を売店で購入し、病室へと向かう。
「きっと大丈夫。絶対大丈夫」
何度も同じ言葉を繰り返した。
流れ落ちる涙を拭うこともせず、近くにあった柱の影に隠れるように立っていると、聞き慣れた声がした。
「カノン!」
「ユーリさん……」
彼の出した手に思わず手を伸ばしてしまった自分に、ハッと我に返りその手を引っ込める。
「泣いていいよ」
ユーリさんが優しく微笑み再度手を伸ばした瞬間、強く腕を掴まれ彼の胸に引き寄せられた。
その行動に、無意識のうちに彼の腕の中に包まれていた。
「Ich bin ein feiger Mann」
(俺は卑怯な男だね)
ドイツ語で言ったユーリさんの顔を、何となくだが見上げることが出来なかった……
再び我に返り、ユーリさんの腕から逃げるように押し退けた時、彼が強く私の腕を掴む。
そして、彼は真剣な眼差しで私を見つめる──
「僕は、あなたを愛しています。これなら分かるかな?」
その言葉に私は首を横に振り、彼の目を見て答える。
「その想いには一生応えられないわ。私が愛している人は、世界中でただ一人だけです。それは生涯決して変わらない」
私は、彼の腕から逃げるように離れた。
そして、一瞬でも彼を頼ってしまったことに後悔した……
「分かってるよ。ただ自分の気持ちに一度くらいは正直に生きたかった。だから謝らないよ」
「……ごめんなさい」
「謝らないでサクライは何も悪くない」
「……」
「本当の愛は、愛する人が苦しむ姿を決して望まない」
「ユーリさん……」
「暗闇だった僕の世界に、明かりを照らしてくれた眩しい太陽達が、笑う姿を見るだけで充分だ。その幸せを許して貰えるかい? 僕のマリア様」
「……ごめんなさい」
しゃがみこんでしまった私に、笑顔で手を差し出した彼の瞳は、清々しい晴れた青空のように、美しく気高く輝いていた──
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