81.魂の叫び
──天野先生の指揮による『四季~春』の演奏がスタートした。
春の輝かしい華麗な調べにのって、軽やかなスタートをきる。美しい音色がホール全体を優しく包み込んだ。
指揮者が天野先生に変更されていたが事前のホームページや、他媒体にスペシャルプレゼントとして『御神 貴志』による『夏』のバイオリン演奏の為と掲載されていたこともあり、今回は観客席からの動揺もなく、すんなり受け入れられた。
『春』の終わりを告げる頃、ほんの少しだけホールがざわついたが、すぐに静かになった。
舞台袖からゆっくりと歩いてくる先生の姿を全員が確認し、ついに『夏』が始まる。
最高級品と言われる「ガルネリ」を構えた先生の佇まいに全員が息をのみ、その時を待ちわびた。
神により『夏』の嵐が吹き荒れた瞬間、全員が一瞬にして息の仕方を忘れるぐらい神に従った。
天野先生が言う「変化していく音」に全員が魅了され、その音についていこうと必死に追いかけるが、気づけばもう先を走る旋律。
ただそれは「独走」ではなく、誘うように神から招かれた渦巻く嵐への入り口だった。
美しく正しいパッセージではなく、どこか危うさと脆さを感じさせる、ギリギリを唄うような旋律に激しく鳴り止まない雷と、吹き荒れる風と強い雨の臨場感が増していく。
まるで一本のドラマのような「音」だった。
前半の2曲目である『夏』が終わった瞬間、まだ後半を残すというのに、なんと大歓声でスタンディングオベーションが起こった。
鳴り止まない拍手に一時、中断を余儀なくされ、やっと休憩に入る。
「この後、超やりにくいんですけど貴志のせいで」
高科先生が、先生に苦笑いする。
「何でだよ。せっかく、あとからやるお前らにやりやすい環境を整えてやったのに」
嫌みなぐらい楽しそうに笑う先生にユーリさんが、ふて腐れる。
「やっぱり俺が出れば良かったんだよ。タカシが出たら、客はそれと同じを求めるもん」
止めて下さいユーリさん。これ以上ハードルを上げないで下さい。
「まぁ『秋』はさらっとやって来なさい」
先生……
さらっとって。
休憩時間が終わり、後半に向けて全員が今日が年内最後の舞台となる先生に、握手をしてから舞台へ向かった。
そして最後に大歓声の中、上着を燕尾服に着替えた先生がゆっくり指揮台に登壇する。
『秋』が終わりに近づく頃、ユーリさんがゆっくり舞台に歩いて来た。
そして天野先生の冒頭のトレモロが始まり、全員がバイオリンを構える。
ブランクを全く感じさせないユーリさんの完璧な音に、全員が安心して名作『冬』に聴き惚れた。
大歓声の中、全曲が無事に終了した。
それでも全員が席を立つことなく、最後のアンコールを期待していた。
◇
「天野、パガニーニのカンパネラ弾いて」
「え? 今日のアンコールって、ヴィヴァルディの協奏曲では?」
突然、楽譜を差し出された天野は、目の前の男の姿に呆気に取られていた。
そして、その男は燕尾服から普通のスーツの上着に着替え、バイオリンを手にしていた。
「み、御神先生? も、もしかして」
「うるさいのが来る前に行くぞ」
「え? ちょ、え? 御神先生ーーーー!」
天野の制止を振り切り、一人でツカツカと舞台に歩いて出て行ってしまった男に、天野は急いで追いかけた。
「マジかよ……」
大歓声の中、なんとその男は観客全員にゆっくり優雅に挨拶をし、バイオリンを構えた。
「おいおい勘弁してくれよ……」
リハーサル一切無しの、パガニーニの最高難関曲の披露が2000人を前に今、突然始まろうとしていた──
「え? タカシ?」
「は?」
「え???」
「み、御神先生!?」
休憩中の為、それぞれが水分補給などに行っていて、舞台袖に戻って来た者たちは、何が起こっているか理解出来ず、ただ驚き固まっていた。
「何で?」
私の声にユーリさんが笑いながら答えた。
「やっぱり、おとなしくは終わらなかったね」
ついに、天野先生による前奏部のピアノの音がホールに流れ始めた。
「あ~~あ。始まっちゃったね」
ユーリさんが愉しそうに笑っている。
パガニーニの名作『バイオリン協奏曲第2番 ロ短調 作品7』の第3楽章の中より『ラ・カンパネラ』が始まった。
リスト作曲の『ラ・カンパネラ』の元になった曲である。パガニーニが愛用したという世界最高峰「ガルネリ」の音色が響き渡る。
通常の荘厳な雰囲気とは全く違う、力強く深い、そして切ない音が鳴り響く。
「バイオリン一本だけの音とは思えないね……」
高科先生の肩が震えていた。
先生の魂の叫びに、すすり泣く音と感嘆の声がチラホラ聞こえ出す。
「過去一だね……」
ユーリさんの綺麗な青い瞳から大粒の涙が流れ落ちた。
圧巻、美しい、素晴らしい、感動的、そんなレベルではなかった。
「魂の叫び」まさにその言葉そのもので、全身全霊で奏でる神の姿に、本物の神が宿っていた。
金色の光の中で白く輝く一柱。
自然と全員がその姿に崇拝の念を抱いていたように感じた。
瞬きをすることさえも許されない張り詰めた空気の中、神の演奏が静かに終わった。
真っ白に染まる視界の中、にっこりと微笑みながら優雅に挨拶をする神の姿に、賛辞を贈る事さえも忘れ、全員が止まっていた。
まるで時間が止まったかのように完全に「白い世界」だった。
その姿に袖で見ていたヒューイさんが、賛辞の声を掛けた瞬間──
ホールに嵐と地震が一緒に訪れた。
「天才ってやっぱりいるんだな……」
高科先生の声に全員が改めて先生の凄さを実感していた。
鳴り止まない拍手の中、先生が観客に再度深々と頭を下げて、ゆっくり舞台を去り袖に歩いて戻って来た。
「タカシ。今世紀一だね」
ユーリさんが、先生に握手を求めて手を出した瞬間だった。
──ドスン
低く鈍い音がした瞬間、目の前にいたはずの先生が、視界から突然消えていた──
何が起こったのか理解が出来なくて、全ての声も音も時間が止まったように「無」の世界になった。
遥か遠くより、誰かを呼んでいるような声が聞こえるが、何を言っているか分からない……
せ、せんせ?
先生どこに?
少しずつ手に体温が戻り、指先に感覚を覚え、顔の筋肉が動き出した。
先生は?
何が起こった?
何か大事な事を私は忘れていないか?
割れるように頭が痛い。
立っていられなくなり床に座り込む。
何? 何が起こっているの?
「貴志!」
「キャー! 救急車!」
「御神先生!」
「タカシ!! 聞こえる? タカシ!!」
真っ白な「無」の世界から、声が聞こえてきた。
悲鳴や泣き声、名前を呼び続ける声。
名前?
な、まえ?
!
はっ!
そうだ! 先生!!
先生!
目の前に広がる現実の世界に、目が覚めたように急ぎ立ち上がる!
「先生!!」
人だかりの中、綺麗な顔のまま目を閉じて床で寝ている先生の姿に言葉を失った。
(せ、先生!!)
声に出来ない……
次の瞬間、身体中の震えが止まらなかったが、真っ白な顔をして瞼を閉じたままピクリとも動かない先生の傍へ、無意識に近づいていた。
そして、先程まで声が出なかったが、気づけば私は叫んでいた。
「先生! 日本に帰りますよ! 起きて! 一緒に帰りますよ!」
先生の顔に手を触れようとしたら、天野先生に止められる。
「桜井、動かすな!」
「タカシ! 何やってんだよ! 起きてよーー! お、お願いだから……」
ユーリさんの泣き叫ぶ声が響き渡る。
だが、真っ白な顔をした先生の身体はピクリとも動かない。
「御神 貴志を諦めないで! まだ御神 貴志を止めないで! 起きて! あなたの居る場所はここじゃない! 起きて! 貴志さん! 私を一人にしない約束でしょう……お願いだから」
「桜井……」
高科先生が首を横に振り、私の手を取りながら自分に引き寄せたあと、優しく背中を撫でてくれた。
先生の瞼に、私の大粒の涙がポタリと落ちた。
──「……勝手に殺すな」
小さな声のあと、先生の瞼がゆっくり開いた。
「先生!!」
「タカシ!」
先生に抱きつこうとした瞬間、ヒューイさんの奥さまの声がした。
「全員退けて! 邪魔。アマノ、タカシの脈とって。ユーリ、この輸液持って高い所から。タカシナ何かつり下げれるもの探して。ササキちゃん車回して用意して」
ヒューイさんの奥さまは婦人科の医師をしており、念のため今回待機してもらっていた。先生の状態の悪化を佐々木さんに伝えた時に、佐々木さんがお願いしていた。
「脈拍、正常に戻った……」
天野先生がヒューイさんの奥さまに声を掛ける。
「こんな状態なのに飛行機に乗せて大丈夫なんですか?」
私は気になって彼女に聞く。
「多分痛み止めを飲んでなかったんでしょうね。本番の演奏で意識をはっきり保つために。本当にいつもながらタカシの音楽に対する執念はもう……無茶をする。痛みを我慢しすぎて気を失っただけだから大丈夫よ。鎮痛剤入れたからすぐ楽になるはずよ。でも無理はダメよ? あとはアマノのパパの指示に従ってちょうだい」
ヒューイさんの奥さまの話を聞いて、ユーリさんが泣きながら先生の頭を撫でる。
「もう……何やってるんだよ。音楽と自分の命どっちが大事なんだよ。タカシのバカ!」
先生の意識が戻り、ヒューイさんの奥さまの指示に従い彼女が付き添う中、帰国に向け空港に急ぐ。
良かった。
あのまま……
本当に良かった──
第七楽章完結
「今話で第七楽章完結です」
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